こんな子、私の子じゃない!役立たず!
小学4年生の時に、好きな親から私自身を否定され、私は自分が嫌いになった。習い事で失敗し、勉強も姉よりもできない。自分が出来損ないの人間に思えた。
当時、その時の気持ちを書いた紙切れには、こう書いてあった。
「どりょくしてもできないわたしは、バカでアホでなんにもできない人。生きていけないかも。わたしのじんせいわるいことしかない。でもごめんなさい。少しどりょくしてなかったかも……」と。
死ぬ勇気はなかったものの、ひどく傷つき、自分の出来の悪さにもうんざりした。それでも、そんな思いを悟られないように夜中に1人で泣きながら勉強したり、習い事に励んだりした。ずーっと心は傷ついたまま。

中学受験をし、私立の中高一貫校に入ると、私はますます自信をなくした。小学生の時は上位だった成績はいっきに落ちた。
100点ばかり取れたカラーのテストはもうない。中学のテストでは50点を下回る教科がいくつも出てきた。各教科一つひとつ順位も出るため、結果が一目でわかる。言い逃れできない悪い結果に泣いた。
勉強ができないことは自分である程度わかったので、習い事や得意だった事でなんとかやっていこうと努力した。でも、順位がはっきり出るテストの結果とは違い、習い事でやっていたピアノや習字は、自分ができているのかできていないのかがわからない。やっていて意味があるのかもわからない。
やめたい。諦めたい。逃げたい。そう思うことが多々あった。

◎          ◎

そんな時、国語の先生が退職する前に、担当した学年全員にメッセージを書いてくれた。中学3年生全員にメッセージを書いたようで、プリントには文字がびっしり並んでいた。
私のところのメッセージには、こう書いてあった。
「あなたは才能の塊です。弁論、書、ピアノetc……。全てを完璧にしようとして苦しむことも多いのかもしれません。失敗を恐れなくてもいい。あなたはあなたです。」
驚いた。私の担当期間の短い国語の先生から、そんな言葉をもらえるとは思っていなかった。
5年間、自分は出来損ないだと思い続けていた。傷ついた心は癒えることもなく、どんどん落ち込むばかりだった。
そんな時にもらった言葉。初めはこの言葉を見て、「そんなわけがない。才能?そんなものがあったらこんなに自分を責めることも、親から否定されることもない。私のことをそれほど見ていないから、誇張して表現しているだけだ」と感じていた。
でも月日を重ねていくと、あの時もらった言葉の意味や思いがなんとなく身に染みていった。

私が苦しんでいることを悟っていたのかもしれない。私が頑張っていることを知ってくれていたのかもしれない。頑張っていることが無意味ではないよと、ちゃんと見ている人がいるんだよと伝えたかったのかもしれない。
そう思うと、「才能の塊」という表現は、私に何か印象づける言葉として用いていたのではないか。当時だけの言葉ではなく、大人になった時でも覚えていてもらえるように比喩表現を用いたのではないか。
これから先、挫けた時にちゃんと見ている人がいるんだよということに、気づかせてくれるための表現だったのかもしれない。

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その国語の先生は、やめてしまって連絡先もわからず、会っていない。だからあの言葉に、こめられた意味や思いの真相はわからない。
でも、私はあの時もらった言葉を胸に、前を向いて進んでいる。立ち止まりそうになった時も、挫けそうになった時もきっとどこかで見てくれている人がいる。そんな気がする。

先生が私の背中を押してくれたおかげで、今日もなんとか、がんばれている。
私も、あの時の先生のように、背中を優しく押してあげられる人になりたい。
先生、ありがとう。