「女らしさ」って何なのだろう。そう考え始めたのはもはや最近のことではない。
ある人は「可愛らしいこと」だというし、ある人は「愛嬌があること」だという。もしかしたら髪の毛が長いことだったり、スカートをはくことかもしれない。
けれど私はいつもその答えに眉をしかめてしまう。
一般的に言われる「女らしさ」を兼ね備えていない私は、女でなければ一体何なのだろうか。もしや女でないのだろうか。考えても考えても答えのでない問題だった。それでもどうしても女でありたい私は必死に答えを探そうとしていた。
「女の子なんだから」と言われた私は「女らしさ」を考え始めた
「女らしさ」を考えるきっかけになったのは、忘れもしない小学校6年生の時だった。
当時私は北海道の田舎暮らしで、クラスメイトも20人程しかいない小さな小学校に通っていた。
当時の私は男の子とばかり遊んでいた。髪は伸ばしていたがスカートなんてはいたことないし、おしゃれをする事や恋や可愛いものには興味がないフリをしていた。
私には似合わないと思っていたからだ。そして何故だか自分が女であることを認めることがすごく恥ずかしかったことを覚えている。
その日は担任の先生がお休みで、校長先生が授業をしてくれることになっていた。どんな授業だったか、何をしたのかはもう鮮明に思い出すことは難しい。だが配られたプリントをする時間だったと思う。
みんなだんだんプリントが終わり、あとは終業を待つだけになった時だった。クラスのムードメーカーな男の子が、みんなを巻き込んで校長先生への質問コーナーのようなものを始めた。
最初はいたって普通の質問をし和気あいあいと過ごしていたが、突然その男の子が「校長先生は、なんでそんなに身長小さいんですか〜?」と少し笑ったように聞いた。明らかに悪意のあるものだった。校長は驚いた顔をしていたため、その子と仲が良かった私は慌てて「そんな質問、校長先生に失礼だべや!」と注意をした。
ある程度伝わるとは思うが、「〜だべや」という方言は「〜だよね」を少し強くした、男言葉のようなものである。物事を確定したようなニュアンスで使い、親しい人の間で使われることの多い言葉だ。
それを聞いた校長は私に「女の子なんだから“だべや”なんて言葉使わないの」と注意をした。
怒鳴られたわけじゃない。だけどその時うまく言葉が出なかった。そんなにダメなことだったのか。女が男言葉を使うことが。女ってだけで言葉にまで制約があるのか。
今でも時々その言葉を思い出しては、やりきれない気持ちから突然大きく叫びたくなる。それ以来私は「女の子だから」という言葉に人一倍敏感になった。
女であることに自信がなかった。そんなときに手に取った本
そしてそれから10年たった。
成長した私はつけまつげをつけてピンクのアイシャドウを塗り、緑のロングスカートに12cmのヒール、伸ばした爪に白と青のネイルを施していた。
どこからどう見ても“女”になっていた。世間がよく言う女らしい女だ。
だけどまだ自分が本当の女だということに自信はなかった。本当の女は自分が女であるかどうかなんて考えないからだ。だから自分は偽物なんだと思った。
だけど生物学上は女だし、私は女でありたい。でも女でいるためには言葉遣いを含めた色んな決まりを守らなければいけない。それならもう辞めてしまいたかった。
女でいるために頑張ってきたけれど、今度は女でいることにひどく重圧を感じていた。
でもたまたま読んだ本に答えがあった。
「私は、化粧しないなあ。スカート持ってないなあ。髪伸ばさないなあ。愛想ないなあ。だって、そんなことしなくても、わたしは十二分に女だもの。これ以上なく、女だもの。これ以上なく、女だもの。誰よりも、そうだもの。」(石田夏穂著『我が友、スミス』)
物語の中で「女らしさ」に悩んだ主人公が吐露した言葉である。はじめて読んだ時、私にかけられた言葉だと本気で思った。
今までどんな言葉をかけられてもしっくりはこなかった。「そうだよね」と相槌を打ちながら本当にそうかなと考えるばかりだった。だけどこの言葉は私の心の深いところにスッと落ちてきて浄化してくれた。
私はどんな姿であっても「女」。悩む日はまた読み返したい
実際この言葉がずっと悩んできた「女らしさ」の答えになっているかと言われればそうではない。ただ主人公と同じくらい女らしさに重圧を感じて、女でいるための制約に悩んだ私は、きっとこの言葉がなかったら今でも水の中でもがくように苦しんでいただろう。
10年抱えていた悩みは一冊の本が掬い取ってくれた。どんな私でも十二分に女であると背中を押してくれた。私は私のありたい姿で、言葉で、髪型で、女でいていいのだ。
これからも女という重圧に耐えきれないことや、女らしさに悩む日はきっと来るのだと思う。だけどそんな時にまたこの本を読んで思い出したい。“どんな私でも女だ”ということを。