私は6月末に退職した。
最後は、読み進めていた本をそっと閉じるかのような気持ちだった。栞も挟まず、頁数も見なかった。生産性のない、形式的な課の会議を4月下旬に出て行ってから、最終出社日まで一度も会議には出席しなかった。1ヶ月近く有休が残っており、会議のある日は有休を使った。

前の仕事をいつかは辞めるだろう・辞めなければ次に進むことができないと思っていたが、最後の決断は予想以上に衝動的だった。無駄な会議が嫌という理由だけではないが、大きな引き金になった。

◎          ◎

辞めるという決断を下すまで、本当に大変だった。
心の中はあらゆる絵の具を混ぜ、黒ずんできたかのようにぐちゃぐちゃ。これまで味わった感情の起伏はグラフに表しきれない。

昨年12月、一人の男性に出会った。私はその日も仕事で腹が立つことがあり、夕方には疲れきっていた。
出会った彼は私より5歳年上だが、同世代と括ると、私がこれまで出会った数多くの人の中で最も優秀だ。学歴は最高峰で申し分なく、それを鼻にかけることは一切なく、非の打ち所がない。大学院時代、すごい職種があると授業で聞いたことがあるだけで、実際、その職種に就いている人とは出会ったことがなかった。彼がまさにその人だった。

仕事の話や大学で勉強したことの話で、初対面の時から意気投合した。私が大学で勉強していたことを実務で実践しているのが彼だった。
二軒目でお酒を飲みながら、「楽しいっていうより楽だわ」と言われた。夜遅く別れてからも、「話が合って楽しかったです」とLINEがきた。その時は、「話が合うなんてファーストステップクリアしたようなもので、普通のことでしょ」と心の中で思っていた。

たまに会えば、彼の仕事の話を聞くようになった。普段私はよく話す方だが、彼を目の前にするとすっかり聞き役に徹し、質問を投げかけながら、授業を楽しく聞いているかのような感じもした。
私が経験したことのない世界、本当に一部の選ばれた人しか経験できない世界があるわけだが、彼が話すと自慢げに聞こえることはなく、時間はあっという間に過ぎた。

私が仕事の不満をこぼすと、「あなたは今の組織に収まるような人じゃない、初めて会った時からそう思っていた」と言った。その時私は、人のことをよく見ているなと思った位だったが、彼との出会い・その言葉が、私の気持ちを強く持たせ、後々、前向きに退職するように仕向けた。

彼と出会い、色々な話が通じ合ったことで自信がついたのだろう。仕事においても気持ちが大らかになり、親に毎晩のように電話口で話す仕事の愚痴がしばらくピタッと止んだ。親も驚いていた。

しかし、3月に再び組織変更があり、言葉が通じないと感じることが増えた。彼が喜んでいた「話が合う」とは、当たり前のことでも何でもなかったのだと思い知った。
私はエンジニアの仕事内容が嫌というわけでもないのに、周りはどうして正しいことが何かわからないの?という気持ちがこみあげ、最後は仕事中に涙が溢れてきた。そして、苛立つことも徐々に少なくなり、プツッと気持ちが途切れ、退職の意向を伝えた。

色々な人から辞める理由を聞かれたが、「やりたいことが他にあるからです」と洗脳されたかのように、言い続けた。前向きな理由で辞めたいというのが、私の最後の意地だった。

◎          ◎

彼が話せば何でも説得力があり、私の胸にスッと入ってくる。彼は、私をこれまで関心のなかったことでも、ちょっとやってみようかなという気に簡単にさせてしまう。彼が大丈夫だと言えば大丈夫で、何でもできてしまいそうな感覚になる。
まっすぐ飛び込んでくる視線、優しく穏やかそうに見えるが、鋭さがあり、私の胸に刺さる。優しくも力強く、背中を押してくれる。

気付けば、私は彼が好きになった。彼と話している瞬間はテンポ良く、"楽しい"が勝つが、後から思い返すほど、彼を好きになったのだと自覚する。

3回目に会った夜、「これからも、あなたとはいろんな話をしたい。だから元気でいてね」と言われた。いつも先を歩く彼が初めて肩を寄せてきた。私は彼が自分のペースで歩いてくれたことが嬉しかったし、これまで覚えたことのないような安心感を覚えた。

私は彼のおかげで新たなスタート地点に立つことができた。
これから彼とどのような関係になるかはわからない。しかし、彼が私の背中を押し、勇気をくれたのは確かだ。
今はもう、新しい職場で生き生きと働いている。