「人にはな、才能を見つけられる人と、一生見つけられん人がおるんや」
いつだったか、父が言ったその一言がずっと頭の片隅に居座っていた。

子どもの頃はどうしても周囲の人を比べがちだ。彼女は足が速いから、運動の『才能』がある。彼は伴奏者に毎回選ばれるようなピアノの『才能』に恵まれている。妹はいつもユーモラスな友人に囲まれていて、その仲間づくりの『才能』が羨ましい。
その度に気付く。じゃあ、私は?と。

以来私は、『才能』というものに固執してきた。自分だけの『才能』をみつけるために、できる努力はしてきた。勉強や運動は苦手なものがあっても諦めずに取り組んだ。競技かるたやパラグライダーといった一風変わった部活に入った。大学では他者と違う知識を身に着ける学問を志した。だけど。
現在27歳。『才能』は未だない。

欲しがっているのに、私のなかに見つからない「才能」

22歳を過ぎた頃から、その現実に焦りを感じるようになった。
テレビやSNS、動画投稿サイトを覗けば、私よりも若いのにいくつもの『才能』に満ち溢れた子がたくさんいる。そもそも土俵が異なる彼らに対抗心を燃やしたって仕方がないのに、勝手に嫉妬してひがんで。そんな大人げない自分に悲しみを覚えるようになっていた。

ある時、音楽番組で大好きなボーカルグループが、注目している後輩グループを紹介していた。私とそんなに年の変わらないその後輩達は、「東京は夜の7時」をアカペラで披露した。素敵なアレンジだった。それを聞いて、私の好きな人達は彼らを褒めていた。
気付いたら、涙を流していた。本当に羨ましくて仕方なかった。

『歌の才能』。思えばそれは、私がずっと欲しくてたまらない才能だった。
初めて観たミュージカルの舞台で力強く独唱する俳優に、あんな風に歌えたら気持ちいいだろうなと思った。以来その姿に憧れて、好きなアーティストができる度に真似て楽曲を熱唱してみた。褒められた事は一度としてなかった。何なら特に音楽のプロでもない母に「音を外している」と言われただけで、ひどく落ち込んで気にした。

「才能」はないかもしれない。そうならば手に入れればいい

一番憧れている才能が、一番向いていない才能だったら?そう考えるだけで、とても怖かった。
でも同時に、今までで一番強く「そんなのは嫌だ」と思った。これまで色んな事を試してその才能がないとわかる度に、きっぱり諦めをつけていたというのに。それどころか、やっていた事を辞める理由にすらしていたのに。

どうしても諦めがつかなかった。そして、思った。歌の才能が『ない』のなら、『手に入れれば』いい、と。
それからすぐに、ボーカルスクールに通い始めた。これまで得られなかった歌と向き合う機会を、大人だから自分で作る事ができた。

最初は1対1のレッスンで気恥ずかしい事もあったが、今では音を外しても気にしなくなった。日々の練習や舌のトレーニングは、どんなに時間がなくても絶対に取り組むようになった。
歌っていると音程に気を取られてばかりだったのに、歌いながらアーティスト本人の表現の仕方との比較ができるようになった。色んなアーティストに羨望のまなざしを向けるだけでなく、その歌い方を観察するようになった。同じ人でも曲のジャンルによって歌い方が随分異なると知った。

できることが増えた。そして「才能」を気にしなくなった

歌を始めて、約1年半。できるようになった事が増えた。
そして何より、あんなに気にしていた『才能』を、気にしなくなった。歌の才能を手に入れるために始めた事が、それを気にする暇を与えさせてくれないのだ。この文を書いていて、その事に私自身が驚いている。

今の私のたくらみは、『ステージで歌を歌い、人に聴いてもらう事』だ。決して、『歌の才能を得る事』じゃない。
まだ披露する段階には追いついていないが、その事をボーカルトレーナーの先生に言ったら笑わず真剣に言ってくれた。もちろんそのつもりで教えている、と。
現在27歳。才能は未だない。でも、『未だ』なのだ。