「ありがとう」を伝えたい人は誰かしらと考えてみた時、普通は人生で1番、あるいは1番最近、感謝した相手が思い浮かぶものなのだろうか。
私はなぜか「あの人」の顔が浮かんでいる。もっと感謝をしている人は山ほどいるし、今日だって会社の上司の気遣いに感謝をしたばかりだ。
しかし、1番に思い浮かぶのはやはり「あの人」なのだ。不思議でたまらないので、少し考えてみようと思う。

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「あの人」とは、私が学生時代にアルバイトをしていた学習塾の塾長のことである。
声が山崎賢人に似ているので、ここでは「山崎さん」と呼ぶ。
私が就職活動で塾のアルバイトを辞めるまで——正確に言わせてもらうと「就職活動が落ち着いたらまた復帰してね」と向こうから言ってきたし私も辞めたくなかったのに、気づいたら何故か辞めさせられていた……！——1年半ほどお世話になった。
数年会っていない。

山崎さんは当時25歳で、私たち学生講師とも歳がそこまで変わらなかったこともあり、山崎さんと学生講師は社員とアルバイトというより、仲の良い先輩と後輩のような関係に近かった。

そのなかでも特に私は仲が良すぎた。
深夜、仕事が終わって家に着くまでの帰り道が暇だから……と電話がかかってきて、毎日2時間電話をしていた時期もあったし、夜ご飯は毎回近くのスーパーで購入したカツ丼だった彼に三つ葉を食べさせてもらうのが私の日課だった。
山崎さんは私をからかうのが大好きで、よくからかったりいじわるをしたりして私で遊んでいた（それらは過度なものも多く、本当に私が傷ついたり怒ったりすることもままあった）。
それに、授業と授業の間に空き時間があれば、彼の業務を手伝っていたので2人でいることも多かった。

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こうなってくると、
「当然、山崎さんの彼女ってフィー子先生だと思ってました」
「俺らはずっと2人のイチャイチャを見せられてるんだと……。3人きりになったときとか、居づらくてそっと席外してますもん」
と言われ始める。
それに対して、
「そうそう、付き合ってる。あっ……ごめん、フィー子ちゃん。言っちゃまずかったかぁ……」
と冗談で返す山崎さん。
私は彼の真の彼女のことを知っているし、存在は知られても正体を隠したい事情も知っているので、この冗談に乗って上手くその場を誤魔化しておいた。
分かりやすい冗談だと思っていたのだが、本当に付き合っていると信じた人も多かったらしく、私の出会いの場がひとつ消失した。折角、学生講師のほとんどが男子学生だったのに。

ここまで振り返ってみたが、1番に彼の顔が浮かぶほど取り立てて山崎さんに感謝をすることが見当たらない。
むしろ、数々の失言を許したこと、カモフラージュに協力したことを感謝されたいくらいである。

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ただ、最近私は当時の彼と同じくらいの年齢になって、彼が言っていたことをよく思い出すのである。
あの2時間の電話、2人で業務をこなしながらした雑談の中で聞いた「上手いことやるって俺が社会人になって学んだ大切なことのひとつよ」や「この歳になったらわざわざ付き合うことの意味が分からんくなるよ、結婚を考えてない人となら尚更」など、仕事や恋愛に関する25歳の彼の言葉。
それらは決まって、私に伝える気があるのか無いのか分からない、半分独り言のような呟きだった。

学生だった私には、「ふーん」としか思えなかったり、疑問に思ったりすることが多かったが、今なら言っていることがよく分かる。
そして少し安心をする。
この安心には2種類あって、1つは今の自分の悩みは誰もが通る道なのかもしれないと思えること、
もう1つは自分も山崎さんの言っていたことがよく分かるようになるくらい、大人になったのだと思えることである。

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やはり、私は山崎さんに「ありがとう」を伝えたい。「感謝をしている」と言うと大袈裟なくらいなのに、無性に伝えたい。
山崎さんが何気無く呟いた言葉に、私は今こうしてじんわり温められ、安心させてもらっている。

今、山崎さんはどうしているのだろうか。
数年ぶりに学習塾のホームページを開いてみたら、塾長の欄に彼の名前は無かった。
もしどこかでばったり会えたなら、照れくさいから理由は言わずに「ありがとう」だけ伝えたい。
それから「フィー子は誰にでも良い顔するから、誰の1番にもなれんのんよ」という彼の発言に関しては、数年経っても異議を唱えたい。