中学受験は失敗だった。
幼稚園までは人見知りで誰からも相手にされなかったのが、小学校では勉強で急に「出来る子」と評されると、私の自信はうなぎのぼりになり、とにかく人より上に行くこと、人より目立つことを目指すようになった。
学級委員に選ばれ、行事では必ず班長を務め、合奏大会ではピアノを弾き、遠足のしおりの表紙には自分のイラストが採用された。
私の人生はすべて、誰よりもうまくいくかのように思えた。
塾でもその負けず嫌いは遺憾無く発揮され、当然のようにトップ校を狙うコースに入り、日夜勉強に励んでいた。

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それなのに6年生の夏、突然塾の成績が落ちてしまった。どう踏ん張っても盛り返すことができない。不貞腐れて努力を放棄すると、成績は面白いほど落ちていった。
スランプからの回復は半ば諦めた私だったが、それでも塾には通い続けなければならない。
塾では毎週テストがあり、そこでは上位5人に、順位に応じた数の星がつきそれが累積されていく、という星取り表が配られる。私の名前のところにだけは星がひとつもなかった。
塾の講師は心なしか私に冷たくなり、みんなのように話しかけるとどこか邪険にされた。でも、彼らにも合格者数のノルマがあるのだから当然だ。結果の出せない子どもは、大人には無用なのだと知った。冬に入ると私はよく腹痛を起こし吐くようになり、結局、塾の制止を振り切って、自分の偏差値に合う「ほどほど」の女子校を受けることにした。
合格者発表の日に掲示された番号表に自分の番号を見つけても、感動は全くなかった。
塾のクラスメイトはみな錚々たる学校に合格したという。塾の謝恩会に出す顔のない私は、ひとりこっそり塾の前まで様子を見に行った。
ガラスばりの外壁に「〇〇中学合格・△△さん」という札が羅列されている中、私の名前はなかった。どうやら進学校に合格しないと、合格としては扱われないようだった。

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自信にみちている私はもういなかった。この一年遊べなかったので友達を誘ってみたが、何度も断られた。
一人勝ちしたくて周りを敵視しては蹴落とすことばかり考えていた私には、実は友達などいないらしかった。私は元のおとなしい自分に戻って、毎日家で空想の世界に浸った。自由帳に漫画や小説を書いては、卒業までの時間を過ごした。

卒業式の日。輪から外れひとりぼんやりしているとき話しかけてきたのは、クラス担任の先生だった。私はその先生が苦手だった。それは、どこか読めない部分がある気がしていたからであり、それは彼女が淡々としていて決して手放しで褒めることはなかったからかもしれない。
少し話をしたのち、彼女はこう言った。
「山下さんならどこでもやっていけるよ」
生まれて初めて言われたことばだった。
先生は、私の受験の失敗を知っていたのだろうか。その時それにどう答えたかは覚えていない。

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その後も先生の期待に背き、私は「ほどほど」の女子校でも馴染めず、その先も浮き続けた。が、それでもどこか大丈夫な気がしていた。
大人になった今も、もう無理だ、どこでもやっていけない、と思い、自信がなくて消えてしまいたくなる日ばかりだ。社会に出ても失敗続きで、自分のところだけまっさらな星取り表のことを思い出したりもする。
私は本当は「星」が少ない方の人間だと知ったのは、ごく最近のことだ。そして、あの先生は「読めない」人だったのではなく、むしろどんな生徒に対しても特別扱いをしない、至極真っ当な教育者だったと気づいたのも。
私は今も、彼女の言葉をお守りのようにしている。