論文の最後には、決まってAcknoledgements (謝辞)が記載されている。これは、論文の協力者へ感謝を述べる目的である。
理性と論理で展開してきた文章の中に、唯一とも思える人間らしい部分だ。

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修論の提出期限が1ヶ月を切った8月の上旬。私は、かなりピンチな24歳修士学生である。
大学を卒業してから1年半が経った昨年の9月に渡英した。それから1年弱、「戦争で傷つく命を無くしたい。」そんな暑苦しい意志は点滅させながら、イギリスの大学院で紛争解決学という学問を学んできた。
戦争をどのように終わらせるのか、戦争にならないためにどのように交渉するか。

聞き心地は良いかもしれないが、人に自慢できるような華やかな大学院生活は送っていない。私の語学力は控えめに言っても、一緒に授業を受けているどの生徒よりも乏しい。常に言語の壁にぶち当たり、授業と課題に追われ、図書館に籠っていると、季節は夏に変わっていた。
イギリスの大学院は1年と短い。今は、来月に迫った修論の提出期限にビビりながら、論文執筆に勤しんでいる。

修士論文に取り組み始めたのは、今年の5月。課題やテストに疲れ果てていた私は、ただただ論文っぽい言葉をパソコンに打ち込んで、自分と指導教官を納得させていた。しかし、内心では、自分の心がノっていないことやテキトーな言葉たちが紙の上を上滑りしていることに嫌気がさしていた。

現状打破。原点回帰。私には修論を書く目的が必要だ。
……。
どれだけ考えても、薄っぺらな目的しか浮かんでこない。私は、自己肯定感を引き下げ、惰性で携帯をいじり、マイブームの深夜ラジオの聞き逃しを聴きはじめた。
パーソナリティとゲストの底なしの明るさが私の唯一の希望だ。と思いきや、不意にある言葉がズシンと私の心を刺した。
「自己肯定感が低いというのは、自分を愛してくれる一番大事な人を一番傷つける行為」
図星だ。今の私じゃないか。
ここからは、私的恒例のハッとしたら突入する、論理を逸脱した拡大解釈モードにお付き合いいただきたい。

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そうか、今の私を認めてあげないのは、今まで関わってくれた人に対して失礼か。
じゃあ、私の大切な人を大切にする事とは!?
いぇす!恩返しだ!恩返し!

なんでこんなことが抜け落ちていたのだろうか。
私は大学4年から渡英する10日前までの2年半、国際協力NPOでインターンをしていた。私が担当していたのは、ファンドレイジング。いわゆる、団体を応援してくれる方々からの寄付集めである。
ファンドレイジングで最も大切なのは、「お礼」と「報告」。温かい気持ちで応援してくれる人には、精一杯の「ありがとう」と「成果」をお返しする。そんな人と人の温かい関係性が、私の心を突き動かすものだったんだ。

それだ、私に必要なのは、お礼と報告!
私はこの論文を通して、今までの24年間の人生を支えてくれた大切な人に感謝を伝えたい。

命の尊さを教えてくれた亡き叔父に、
働く意義を教えてくれた母に、
英語を学ぶきっかけをくれた高校時代の教師に、
私の進路と学びを支えてくれた大学時代の教授に、
切磋琢磨しあったインターン時代の仲間とそれを支えてくれた上司に、
もちろん、深夜ラジオでハッとさせてくれたあのゲストにも、

私が、ここまで来られたのは、あなたたちのおかげです。
本当にありがとう。

私の修論は、たくさんの「ありがとう」をぎゅっと詰め込んだお手紙です。異国での孤独な修論生活が、私は一人じゃないと教えてくれた。日本に帰ったら今までの苦労も全部忘れて、完成した論文を手に謝辞には書き切れないほどの感謝をみんなに述べたい。

そんな私へ。
さっさと論文を仕上げなさい。