生きているだけで、社会は私の心をすり減らす。子供のころから変わらないその苦しみの逃げ道を、私はいつしか自然と見つけていた。
それが、私の「邪魔されたくない時間」である。

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私の邪魔されたくない時間。それは、創作の時間である。なぜなら創作は、私の脳内の思考や想像を自由に表現することを許す、最も幸福な時間だからだ。
私にとって一番身近な創作は、文章を書くことである。

文章というのは、専ら自作小説のことを指すのだが、書き始めてみるとこれが存外楽しい。日常では使うことのない文学的な表現や、表に出すことのない感情を、紙の上でなら爆発させることができる。

昔から、心の奥に隠れた想いを、文章の中でなら容易く表現することができた。そして、自分以外の代弁者にそれを語らせることにより、いくらでもドラマチックに表現することができた。それはかなり大げさな言い回しで、それでいてどこまでも素直に、私の気持ちを可視化してくれる。
これが、私にとっては何ものにも代えがたい幸福であり、遊園地のアトラクションに乗ることよりも濃くて刺激的な体験なのだ。

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そして、創作というのは、自分の想像次第でいくらでも世界が広げられるのが魅力だとも思っている。彼らはいつも、未知への探究心を掻き立てるようなわくわくした気持ちを、私に思い起こさせてくれる。子供のころにはあった、未知への驚きの感覚「センス・オブ・ワンダー」が、今でも私の中に息づいていることを確認できるのだ。それは、どんなエンターテイメントにも勝る、私を楽しませる手段なのである。

だから文章を書くとき、必ず私の中の没入スイッチが入る。これが、誰にも邪魔されたくない時間にあたるのだろう。
閉じた私の頭の中では、イメージが忙しなく動き回っている。その間はかなりの集中力を発揮することができ、気付けば数時間経っていたなんてことも往々にしてある。この時間に声をかけられるのは、やはり野暮だ。思考が途切れると、浮かんだイメージが永遠に失われてしまうような、そんな感覚すらある。イメージは生ものゆえ、鮮度が大事なのだ。
そんなわけで、文章を書く際はヘッドホンを装着し、音楽を流しながら執筆を行うのが常だ。

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子供のころから、何かを作り出すことが好きだった。それは大人になった今でも変わることなく、邪魔されたくない私の時間としてあり続けている。
日常で飲み込んだその言葉を、憧れてやまない情景を表現することで、息苦しい現実世界から離れ、束の間の休息と癒しを得ることができた。
自分の技術が至らず歯噛みすることも頻繁にあるが、それもまた楽しい。

私の生まれた理由、生きる理由、生きづらさ、孤独感、愛、人生観、思考回路。それらを紐解くことが、私の心を豊かにし、ときに潰れてしまいそうになる自分を支え続けてきた。そのため、私の書く文章というのは内省的で、閉じた世界観のものが多い。けれど、そんな文章を書くことが好きだし、この先いくら書き続けても飽きないという確信がある。
私にとって、文章を書くことは自分との対話であり、想いを吐露する相手であり、生きづらさを感じる自分を救う手段なのだ。

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いつも笑顔ばかりではいられない。上辺だけのポジティブな言葉なんて大嫌い。
一次的な気分転換や、ストレス解消方法などでは決して癒すことができない心の深層は、私の一番の理解者である「私」によって、これからも支えられていく。

文章を書き始めると、図らずも壮大な仕上がりになってしまうのが、私の悪い癖である。
つまるところ、私にとって文章を書くということは、自分を癒す究極のエンターテイメントなのだ。