小学校3年生。「こんなものがあったらいいなと思うものを絵に描いて発表しよう」という授業中、私は「飴を舐めている間だけ、好きな動物になれる飴」といったアイディアを考え出した。
色とりどりに描いた飴玉のイラストは、飴の色によって変身できる動物が違う。我ながら名案だ、とその企画書を書き上げた時には自信があったのだが、周囲は私が思っていたよりも現実的。席が近いクラスメイトの発明を聞いてみれば、「ドラえもん」に登場する「どこでもドア」や「暗記パン」のような、利便性重視のものばかりだった。

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少々の不安を膨らませつつも、みんなだって色んな動物になってみたいはずだ!と自分を鼓舞する。現実主義な発明家達が席順に繰り広げる発表を、「それがあったら確かに便利だな」と納得しながら聞いた。
そしてとうとう、私の番が回ってくる。担任の先生に指名されて「はい」と返事をした声は、緊張で震えていた。

立ち上がり、なるべく大きな声で、みんなにイラストを見せながら私の野望を語る。
その時のクラスメイト達の表情は覚えていない。ただひとつ、困ったように苦笑した担任の先生の複雑な顔だけを、覚えている。あろうことか、利便性に欠けた私の案は受容されなかったのだ。
「あなたは動物になりたいの?」といった疑問をクラス中からぶつけられることとなり、当然動物になってみたかった私は頭の中が大混乱である。

たった10年そこらの人生史上、もっとも強く羞恥を感じる事態だ。顔がかーっと熱くなって鼻の奥がツンとする。涙が迫り上がってきて、視界はぼやけてゆらゆら揺れた。
あ、私、泣く。わかった瞬間、ぐっと下唇を噛んだ。
泣くものか。私の想像とアイディアは確かにファンタジー色が強く、絵空事だったのだろう。だけれど、おさなごころに願ったその夢を誰かに謗られる謂れはない。私は色んな動物になって、その動物にしか持てない視点で、世界を見てみたかったのだ。そんな素敵な夢のどこに苦笑されるべき欠点があるというのか。

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発表が終わり、席に着く。隣に座っていたクラスメイトが、「飴の色によって、違う動物になれるんだね」と言ってくれた。今度は安堵して、泣きそうになった。だけれど私は泣かない。あの日の私は確かに、偉大で殊勝な発明家だった。

そこそこ大人になった今、あの日のことを思い出すと、私は今もあの頃の発明家な自分でいられているのだろうか?それとも夢いっぱいな空想に「ありえない」と苦笑する大人になってしまったのだろうか?とやや不安になる。
今の私には、このエッセイを大きな声で読み上げ、どんな反応をもらったとしても背筋をぴんと張り、これが私である!と毅然としていられるだけの勇気があるだろうか。
ちょっぴり自信がなくて、「あの日の私には負けるなぁ」と思う。

夢を笑われた私が、それでも泣かなかった理由。私はいつでも、自分の想像力を信じていた。想像することは素晴らしくて、楽しくて、とても素敵なことで、それを誰かと共有できることに喜びさえも感じていた。だから、私が私自身の想像力を誰よりも信じ続けてあげるために、泣くわけにはいかなかったのだ。

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あの日、大きな声で「人間以外の動物になってみたい」と言った私は、とても偉大な人生の師かもしれない。今更あの時の羞恥心を思い出して、胸が熱くなる。
あの日殺した涙に報いるべく、私はこれからも堂々とした夢想家であらねば。決意新たに、10歳の自分と対峙する。

ありがとう。きみのおかげで私は今も、自分の想像力を愛しているよ。
私はこれからも、自分の言葉で話をする。「飴を舐めている間だけ、好きな動物になれる飴」はまだ発明できそうにないけれど、私は今も「あんな動物やこんな動物になってみたいな」と夢を見ている。
だから、愛犬の視点と同じ高さから世界を覗いてみたとき、ちょっとだけ夢が叶ったような気がした。