みなさんには「こんな人になりたい」と焦がれる、憧れの女性はいるだろうか。
かく言う私はというと、自己肯定感の高い女性に強い憧れを抱いている。
自己肯定感とは読んで字の如く“ありのままの自分を肯定する感覚”である。小中高大と各地で率先してふざけ、体を張った体当たりな笑いをとる事で存在意義を見出してきた私に、それが足りてないのは明確である。
異性に大人気の彼女が、同性の友人にも先生にも信頼され愛される理由
高校生の時のクラスメイトに、異性に大人気の女の子がいた。常に彼氏が途切れる事のないモテモテっぷりで、別れてもすぐに次の男がシュッと顔を出す。その一連の流れは、まるで箱ティッシュのようだと揶揄されるほどであった。
このように書くとさぞ小悪魔な女の子を想像するかもしれないが、そうではない。彼女は同性の友人を始め先生達からも信頼され、愛されていた。
何故我々は彼女に惹かれてしまうのだろうか。私はその疑問を解き明かすべく、授業なんかまるで聞かずに観察を続け、一つの結論に辿り着いた。
そう、彼女は冒頭でも説明した「自己肯定感」が非常に高かったのである。
自分らしさを愛し、自信を持ち、決して卑下することなく「私は私に産まれてきてよかった」と心の底から思っているのだ。
故にいつも笑顔で人当たりが良く、優しさを皆に分け与えてくれる。こんな人を好きにならない訳がないだろう。
そんなハッピーなパワーに満ちた彼女は、宇宙に例えるとまさしく太陽のような存在で、私のように自信がなくウジウジとした女は彼女の周りをぐるぐる回り続ける有象無象の天体に過ぎないのだった。
「私は私に産まれてきてよかった」
いつか彼女のようにそんな事を思える日がくるのだろうか。私も自信が欲しい、ありのままの自分を好きになりたい。
アラサーになり老いに慣れてきたころ、プツリと心の線が切れた
その後も自己肯定感に焦がれ続け、運良く手にする日が来ますようにと神頼みをしている間に10年経ち、いわゆるアラサーと呼ばれる年齢になってしまった。
頬の頂点にはシミと呼ばれる斑点ができ、ヘアブラシに絡みつく抜け毛の量に驚く日々だ。
老いを感じる瞬間があるごとにひどく落ち込んでいたが、それに慣れてきたある日突然、プツリと心の線が切れた気がした。
「あれ、なんか今ちょっと楽かもしれん」
若い頃はうらやましく思う対象が沢山あって苦しくて苦しくて仕方なかった。あの子は家族が仲良しでうらやましい、あの子は足が長くてうらやましい。手に入るはずのないものを「いいなぁいいなぁ」と指を咥えてうらやむ時間は、私にとって「私にはそれがないからダメで仕方ない」と傷口を舐める時間でもあった。しかし、舐めども舐めども傷口は塞がるどころか化膿する一方で、その度に胸の奥底がジクッと痛んだ。
手放す度に無駄な価値観も剥がれ落ち、自分という人間がクリアになる
持っていたものがどんどん失われていく今、私は手放す悲しさよりもその喜びを覚えている。負け犬の遠吠えに聞こえるかもしれないが、手放す度に纏っていた無駄な価値観も剥がれ落ち、自分という人間がクリアに見えて「本当はこんな良いところがあった」と気づけるようになったのだ。
確かに足りないものは沢山あるし、欲しいものはもっとある。しかし持っていた物や気持ちに別れを告げる事は、私にとって残った物と共に自分を大切にしようと思える希望へと変わった。
「なんだ、私も私で結構いいとこあるじゃないか」
舐めるのをやめた今、傷口はゆっくりとだが塞がろうとしている。
まだ胸を張って「私は私に産まれてきてよかった」とは言えない。しかし、今まで縋り付いていた物を少しずつ手放す事で自分の良い所に気がつき始めた今、いつかはそう言える日が来るのだと信じたい。
それがいつになるかは分からないが、来年は今よりももう少しだけ、自分の事が好きな私になりたい。