私には嫌いな時期が2つある。お盆、そして年末年始だ。
理由は、世の中にはそれらの時期は「家族と過ごさなければならない」という風潮があるからだ。そして、私は家族のことが好きではない。正確にはとても憎んでいる。

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私は主に心理的虐待、性的虐待を親、そして一部の祖父母や親戚から受けてきた。加えて父親はカルトにはまり、母親は教育虐待。幼少期から思春期にかけて私の心身は荒んでいった。そしてとても厄介なことに、両親とも仲良く、かつ名のある職業で、私の家は傍から見れば街トップクラスの裕福な家庭であった。
世の中には虐待=貧しい家庭、身体的虐待、ネグレクトといった目に見えるものでなければ虐待と認めない風潮がある。まるで更に更に辛い環境でなければ苦しいと声をあげることができないように。

でも、テストやコンクールでトップを取らなければ不機嫌になって暴言を吐かれたり、「愚痴を吐いたら悪魔に呪われるよ」と弱音を吐けない環境を作って風呂や部屋をのぞかれて体を触られたりした経験は、虐待とは呼んではいけないのか。私はそうは思わない。
金持ちの娘、という偏見から周囲の人に相談をしても、「親御さんはあなたを愛しているんだよ」「子を愛さない親はいないよ」とばかり言ってくる。暴言やセクハラは愛情なわけないのだ。元に、実際に嫌がったら首を絞められたり、殴られたりしている。だから私は軽々しく近くの人に話すことをやめた。代わりに、Twitterを見るようにした。

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Twitterでは、私と同じように虐待に悩む人々の叫びがたくさんある。内容は愚痴であったり、怒りであったり、生き抜くためのライフハックの時もある。皆、親への強い憎しみに向き合いながら生きようとしている。
周囲の影響もあり、はじめは私が親の行動に過敏に反応しているのではないかとだけ思っていた。しかし、Twitterを見ているとそうではないらしい。改めて、私のされてきた事は立派な虐待だ。
中には、不幸マウントといって、上記にあるような警察沙汰の虐待しか認めないアカウントもある。目に見えない虐待を軽視する発言も多々ある。正直悔しかったが、一人一人違う辛さを持っていると考え始めてからは気にしないようにした。私は私で解決策を考えなければならない。

Twitterを見始めてから私に変化が起きた。一つ目は親に対して嫌いなままで良いという気づき。二つ目は自分を責めなくて良いという気づきである。
親と子どもが仲が良いことが当たり前、という日本の風潮を息苦しく感じていたが、その風潮に負けないくらい生き抜いてきた人達は逞しく断言していた。彼らにとっては偶然で決められた血の繋がりよりも、こつこつと人間関係を積み上げてきた血の繋がらない大事な人達がいるのだ。私は安心して親のことを嫌うことができた。
そして、お盆の時期は皆、「帰省をしない」「まずは自分の心身を守る」ということを宣言していた。私も「お盆に帰省しない」仲間になろう。私も宣言した。大事な休みの時期をサンドバッグにされてたまるか。

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Twitterのライフハックや経験談を通して、今では自治体に助けを呼べるくらいに自身の問題は解決に向かっている。とはいえ、虐待されることは変わりないため、次のステップは心身ともに親から遠くに離れることである。
やり方は未知数だ。でも私には自治体の皆さんや共に苦しみに向き合って戦い続けるSNS上の皆さんがいる。味方は実は案外多いのかもしれない。

虐待は、当事者が死んだら味方は増えるが、死んでいない時はなぜか世間はやたらと当事者を責めてくる。とっくに私たちの心は死んでいるというのに。
でも皆さんが発信していくことで世間の虐待への認識が変わってくれたら嬉しい。一緒に苦しみを乗り越えていきたいし、最終的に虐待へのあらゆる知識がもっと世間に広まったら良いと思う。子を愛さない、自己都合で子どもを育てる親がいることは特に全世界に広まって欲しい。

虐待の経験に悩むSNS上の皆さんへ。力強い言葉をありがとう。親を愛さなくて良いと気づかせてくれてありがとう。
顔も名前も知らない皆さんのおかげで、私も親からの呪縛に向き合っていけそうです。