その日、人生で初めてアルバイトをサボった。
大学1年生の夏。夕方から夜に変わる、紫のグラデーションを背景に、私は泣きながら自宅のベッドにうずくまっていた。

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遡ること2時間。バイトに行く準備を終えた私は、座り込んで立てなくなっていた。
襲いかかる下痢と吐き気。医者に行っても「心因性のものです」と言われる類のものだということは分かりきっていて、だから、一人きりのリビングで小さく舌打ちをした。
思い返せば立てなくなる瞬間というものが人より多い人生で。高校生の頃から通算100回以上は立てなくなった私は、これが1回きりの体調不良なのか、引きずるものなのかもわかるようになっていた。
今回は後者。荒くなる息を抑えて、私はアルバイト先のコンビニに電話を入れた。

「はい、こちら〇〇店クマラが承ります」
出たのはスリランカから来たアルバイトのクマラさんだった。
「お疲れさまです、ミドリです。すみませんが、本日のシフト体調不良でお休みさせて頂きたいです」
「わかりました。店長に言ってきます」
保留音のあと、クマラさんが言う。
「今日は人が少ないので来てください」
「でも、動ける状態じゃないので……」
「お願いします」
電話が切れた。なんだか絶望的な気分だった。来てくれと言われても、物理的に動ける状態ではないのだ。
全ては体調不良が原因。けれど、その体調不良だって私の心の問題らしい。なら、どうすればよかったんだろう。どうすればいいんだろう。今度こそ舌打ちは大きくなった。
同時に、悔しさからしょっぱいものが口へと伝った。泣いたところでどうしようもないのに、涙は止まらなかった。悔し涙は嬉し涙と違う味がするというけれど、どうだろう。私の人生は悔し涙ばかりで嬉し涙と比較することもできない。

結局、アルバイトの時間が迫ってもその場所から一歩も動くことはできず、私は初めてアルバイトをサボることとなった。

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ああ、川へ行こう。そう思った。何故かはわからない。ただ、泣いて泣いて、泣き尽くした私はかなりボーッとしていて、お酒を飲んだかのような酩酊感を覚えていた。
気がつけばアルバイトの終了時刻はとっくに過ぎて、外は真っ暗になっている。休めたからなのか、もうバイトに行かなくていいという安心感からなのか、私の体も動ける状態になっていた。外へ出るのに、私は出来るだけ顔と体が隠れるような格好をした。帽子とマスクと黒い服。私の姿を誰にも見られたくなかったから。できるだけ、夏の夜に溶けてしまいたかったから。

部屋を出ると、むわっとした熱気が私の体を包む。日が落ちて夜になっても、この街は昼の暑さを忘れさせない。責められている気がして、私は下に停めてある自転車へと急いだ。

自転車にまたがって、自分の住む街を駆け抜ける。駅の周りでは帰宅中のサラリーマンたちが、全員疲れた顔で踏切を待っていた。ちゃんと生きていて偉いと思った。ちゃんと生きているのが憎いと思った。
だから、人の気配を振り払うようにスピードを上げた。私の体は夏の夜の空気を割いて、川へと進んだ。

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川辺へと出ると、私は夢でも見ているような気分になった。人が一人もいない川辺で私は間違いなく主人公だった。ここでは誰かと比べたりなんてしなくていい。惨めな思いをしなくていい。さっきまで嫌だった熱気も、今では味方のように思えた。

空を見上げると、星が点々と光っている。私は、遠くにある銀河鉄道を夢想した。きっと私の自転車と並走しているのだと思った。自転車を停めて、川の方へと下りた。今なら飛び込める気がした。飛び込もうと思った。波打つ黒い川が私を誘っているように見えた。
その瞬間、心に冷たい風が吹いた。黒い海に浮かぶ私の顔は、もはや原型を留めてはいなかった。
無理だ。私は川には飛び込めない。飛び込まない。だって、私は主人公なんかじゃないし、この空に銀河鉄道なんて走っていない。さっきまでの酩酊感はどこかへいった。
行きが嘘のように、帰りの自転車は鈍かった。帰り道、通りかかったおじさんがすれ違いざま、何かを私に言った。
惨めなまま生きている私は、今日3度目の舌打ちを夜に放った。