ママと喧嘩した。彼女はわたしを心配し、責めた。そしてわたしは苛立ちと死にたい気持ちでいっぱいだった。
やけに横長な街を跨いた先にある大橋へ自転車で向かいながら、わたしにはそれを成し遂げる勇気はないことを薄々と自覚していった。苛立ちはママに反抗したい意地へと変わり、全てを投げ出したい気持ちも弱まる。気がつけば無心でペダルをひたすらに漕いでいた。

もとから飛び込む理由もなく、橋の下の土手に寝転がり言い訳を探した

大橋と名付けられているくせに思っていたより水面が近かった。行き場のない苛つきを覚えると同時に、少し安心したような気がした。死ぬために橋に来たはずだったわたしは、橋の下の土手に寝転がって、イヤホンをつけて思考をめぐらす。言い訳探しだ。

人目があることは逃げる言い訳になる。真夜中の散歩だろうか、もしくは漁師なのか。それらはなんだか怪しく見えた。見られると恥ずかしいからもう少し待とう。
それから橋の上を行ったり来たりした。もしかしたら声を掛けられるかもしれない。仮に誰かに声をかけられていたら、わたしはなんて答えただろうか。

ママからの電話は無視した。悶々としながら再び橋の上から川を憂鬱な気持ちで見下ろしているうちに、空はだんだんと明るくなってくる。
そうなればわたしはもう飛び込めない。もとから飛び込む理由などない。言い訳もくそもなく、そこにいるだけ。数キロ先の家に帰るのが面倒なだけだ。

仮に飛び込んでも、ここで人生を終えられる保証もない。きっと街中に知れ渡り、家族はやっと地元と呼べるようになった街から出ていくことになるかもしれない。
遺体の処理は?そんな心配も必要ない。結局わたしは飛び込まなかった、死にたくなかったのだからだ。

夜は明け、すれ違う人たちに見られても、私に恥は残っていなかった

ママと自分のベッドが恋しくなってくると、わたしは「自分は情けない人間だ」とすっかり開き直っていた。家に帰ったら心配してくれていたママが「あんた、なにやってんの。アホやな」と少し安心したような顔で言ってくれることを、心のどこかで期待していたのだろう。

夜は明けて、空はどんよりと曇っていた。はっきりと水面が見える。
海沿いに散歩をしに来た人たちは増えて、海が職場の人たちともすれ違う。彼らを見ても、すでに開き直っているわたしに恥は残っていない。
時間が経つにつれ、わたしは眠くなり、橋から離れて歩道橋の下に座り込んだ。持ってきたのは携帯だけで、喉の渇きには知らないふりをする。そこで蟻や雑草に囲まれて、横になっていると、たまに通る人から驚いたように見られ目が合う。
当たり前だ。ここはホームレスをするような場所ではないのだ。女の子がなにも持たずに階段の下で寝転がっているのは不自然だろう。

おまわりが迎えにきて、自分のなかで諦めがつき、帰宅することに

わたしがそうしている間、ママはおまわりに連絡をして、弟は自転車でわたしを探し回っていた。そうして、わたしはとうとうママの電話に出た。ママに居場所を伝えると、おまわりはわたしを迎えに来た。

家まで送ってもらう道中で、わたしは「なぜこんなことをしたの?」と聞かれた。
疲れていて、大したことない経緯を話すことがおっくうになっていたわたしは、ただ構ってほしいだけのやつだとバレているのだろうと思いながら、適当に返事をし続けた。

家の前に着くとママが出てきておまわりに謝罪し、お礼を言った。そしてわたしもママに倣った。しばらくしてママと弟にもひとこと「ごめん」と謝った。それは謝罪というより「ただいま」に近い「ごめん」であった。

わたしはけんかをすると家出をするクセがある。大抵は自転車で海へと向かうのだ。
漕いでいるうちに落ち着いてきて、海辺で過ごす。家に帰るとママは当然どこにいたのか聞いてくるが、「海にいた」と言うだけだ。

その後、けんかしたことについてはあまり言及しない。実際、ひとりで海を眺めていただけなのだ。

かまってほしいのは本能なのか。心配されると、安心できるのかも

けんかをすると逃げるくせは今も昔も変わらない。家族旅行に行っても、買い物にいっても、たとえ家族以外の人がいても、けんかすればくせはでる。家にいれば海を目指し、出先ならどこかひとりになれる場所を求めてうろつく。

旅行先でけんかすれば、地図も携帯も持たず何キロも先のホテルまで歩いて帰るし、犬の散歩に行けと叱られたら愛犬を自転車のカゴに乗せてペダルを漕ぐ。夏の夜中にけんかした日は、海沿いに落ちていた浮き輪をベッドにして寝酒をし、気づいたら朝日が昇っていたこともある。

どこにいっても最終的にママのところに帰ることになるわたしは、ただの構ってほしいこどもだ。誰かに助けてほしいと願っていて、甘えたいのだ。
一体、わたしが望んでいたものは何だったのか。優しい慰めの言葉をかけてほしかったのだろう。

実際、逃げることは苛立つ心を落ち着かせるのに有効で、人にも物にも当たらない。
ただ、周りの優しい人間を心配させる。そしてそれがわたしを安心させるのかもしれない。
かまってほしいのは本能なのか、わたしにはわからない。