創作をしているときの、自分の作った世界に振り回される時間が好きだ。
もっと詳しく言うと、私の脳味噌から生じたはずなのに、私と同一性を保っていない彼女らと関わる時間が好きだ。
彼女らのパーソナリティを理解する。他者にその存在を知らしめ、時に他者を不快にさせ、時に救う。
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私は普段、小説も書くし漫画やイラストも描く。そういうふうに日々を過ごしていると、キャラクターを生み出すことも日常茶飯事だ。
キャラクターは、例えばその人が20歳であると設定したとして、その人の今までの20年の人生は存在しないにもかかわらず、20歳であると扱われる。そして、その他の設定についても、作者である自分自身が全て決めることができる。
しかし、作者であっても、キャラクターのことを完璧に理解することはできない。どれだけ属性をたくさん付与したとしても、その隙間にある情報を完全に「正しく」補完することはできない。また、キャラクターは、自分の思考の産物であるのに、自分の人格から離れた人格やN年生きた独自の積み重ねを有する人間として存在しているように思う。
だからこそ、物語を紡ぐにつれて彼女らに対する理解が進んでいき、自分と相容れない部分が見つかる。予想外の一面を発見したときの喜びは、人間の多面性に触れたときのそれに匹敵するくらい強い。分からなさに頭を抱えることすら楽しい。まさに、自分の作った世界に振り回されている。
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そして、自分の作った世界を、他者の視界に入れることもまた、創作の楽しさを増幅させている。
私の創作物には、作者である私が意図したことやものが散りばめられている。しかし、他者はいつも自分の思惑通りにそれを受け取ってくれるわけではない。これをもどかしいと思うこともあるが、キャラクターに対して感じることが人によって違うというのは、そのキャラクターが「生きている」ことの証拠となるのではないか。
同じ人間でも、誰が見るか、どのような状況かによって、善い人とも悪い人とも判断されうる。キャラクターでもそれが起きるのなら、そのキャラクターは「生きている」人間に一歩近づいたと言えると思う。
人間が他者を不快にさせることも救うこともあるのと同様に、キャラクターや創作物も他者を不快にさせたり救ったりする。人間が他者を救うつもりもなく勝手に救ってしまうことがあるように、キャラクターや創作物も勝手に他者を救いうる。毒のつもりが薬になる。逆も然り。
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不快にさせることがあるからといって、絶対的な悪であると断定できない私の世界を他者の眼前に置く。今度は他者に何を思わせることができるのだろうか。その感想に触れたとき、私の口から発せられる言葉は「そうでしょ」なのか、それとも「そんなつもりではなかった」なのか。
自分の作った世界に振り回される悦びを噛みしめながら、今日も明日もブルーライトのシャワーを浴びる。
ノック音にもインターホンにも、この時間は邪魔されたくない。