小学生の頃からだった。私はすぐに泣く子が気に入らなかった。
泣いたら周りの子が心配して駆け寄っていく。「どうしたの?」「何かあったの?」と泣いた子を取り囲み、擁護する。
でも、泣いた方だって悪いことをしている場合も多かったし、些細なことですぐ泣く子もいて、私はそんな人になりたくないと思った。泣いて周りを味方につけようなんてずるいと思った。自分ではどうしようもなくなって、言葉でも言い返せないから、その奥の手が泣くという手段なのだと思っていた。

泣いたら助けてくれるなんて大間違い。世の中そんな甘くない。泣く人は弱い人だ。私はそんなずるい手を使う人にはなりたくない。
私はちゃんとまっすぐ向き合える人になるんだと、私は日々泣かないことを心がけた。

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転んで血が流れていても我慢した。給食袋を取られた時だって泣いたりなんてしない。私は正々堂々まっすぐ言葉にして立ち向かった。後ろから体育館シューズを投げられる嫌がらせにあっても、今日手術するっていきなり言われても泣いたりなんてしない。
私は強い。私は強いから泣かないんだ。いつでもそう自分に言い聞かせた。
私の中で泣いたら負けだった。
泣いたら弱さを認めたことになる。泣いたら相手を困らせてしまう。
泣いたって事実は覆せない。周りの助けを求めるなんてただの甘えだ。心の中で泣くまい泣くまいと言い聞かせた。
だから私の泣いている姿を見た人は、身内や本当にごく僅かな人だけだ。

でも、泣かないことを貫くあまり、私は勝手に強い女だと思われていった。心の中は苦しみや不安でいっぱいで、どうしようもなくなっているのに、泣かないから、平気だと周りに思われてしまった。
明らかに損だった。
職場でも何人も泣いている人を見た。大人になってもあんなに堂々と泣けるなんて……。でもその時、気に入らないという感情とともに、羨ましいという感情も抱いた。
私はその程度ではもう泣けない。泣かないことを貫きすぎた私にとっては、どれだけ心の中が乱れていても、涙として溢れることがなくなってしまっていたからだ。

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日頃心掛けていたことで、苦しかったり不安だったりするときに泣くという行動を失ってしまったのだ。
それが周りから見たら、平気で丈夫で冷たく可愛げのない女と思われる要因ともなった。肝が据わっている、年齢の割りに大人っぽいとよく言われた。
いいことかもしれない。きっと褒め言葉だったと思う。でも私は、本当は泣いてるんだ、心の中で。
そして泣かないことを心がけ、平気なふりをする私は、大丈夫じゃないと口にすることさえ困難になっていった。
不調を口にすることも、辛いや苦しいと口にすることも、泣かないを貫くこととともに難しくなった。しだいに泣くこと同様、弱さをさらけ出すことそのものが、ずるいことかもしれないと思うようになってしまった。

弱さを口にして誰かを味方にしようなんて、弱さを口にすることで誰かを不快な気分にさせるなんてダメだ。
自分の中で「泣かない」がいつの間にか飛躍してしまっていた。

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今思うと、「泣かない」を貫いてきたことは、間違いだったかもしれない。
でも、すぐに泣いてしまったら、私の道理に反してしまい、私自身が許せなかったと思う。
泣けたらどれだけ楽になるだろうと思ってしまうことも、泣いたら辛くて不安な気持ちも流れ出てくれるのだろうと思ってしまうこともある。でも、もうそう簡単に泣くことができない。
でも、だからこそ、私が泣いた時って、ものすごく特別なんだ。
祖父が亡くなったときに流した涙も、大会で大きな拍手をもらったときの涙も、彼の前で溢れた涙も、それはそれは特別なもの。
泣けなくなった私が泣いたんだ。
胸がいっぱいになって、言葉とか言い聞かせるとか、そういうの全部できなくなった瞬間にしか起こらない。
他の人の涙とは違うんだ。見た目は同じなんだけど、私の涙は特別。気づいてくれないかもしれないけど、本当に特別なんだ。