「泣いちょ、泣いちょし」
約25年前に撮影されたホームビデオ。
当時2才だった私が大声で泣くのを、祖母が優しくあやしている。
大好きだったおばあちゃん、私が11歳の時に亡くなったおばあちゃん。
出産を控えた今、私は祖母の声を反芻している。

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私が初めて覚えたのは甲州弁だった。
転勤族の父がたまたま地元の山梨に転勤になり、妹と年子で手がかかったこともあって私は幼少期を父の実家で過ごした。
東京から嫁いできた母は甲州弁が理解できず、娘の言葉がなまるのを嫌っていたようだが、それを教えてくれたのが祖母だった。
慣れない子育てと転勤で口数が減っていた母に変わり、祖母は生まれたての私にたくさん声をかけてくれた。
言葉が理解できるようになり、少し話せるようになると、今度はたくさんの童謡を歌ってくれた。
小学校へ通い始め戦争を勉強した時には、自身の実体験を話してくれた。
おかげで私は言葉の発達は早かったようだし、浦島太郎の歌は今でも5番まで歌える。
戦争経験者が少なくなっている今、祖母の思い出を私は自分の子供に伝えることができる。
祖母の声が私の中に染み入っている。

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悲しいことに、私は祖父の声を忘れてしまった。
祖父ともたくさんおしゃべりをしたはずなのに、ホームビデオにはほとんど声が入っていない。
私が小学校4年生になった頃、体調を崩した祖父は最期、寝たきりになった。
声を出すことさえできなくなり、結局会話どころかお別れもできず祖父は亡くなった。
おじいちゃんが死んでしまった。
10歳の子供でさえ悲しく辛い出来事だった。
もしかしたら「もう祖父とは話せない」という悲しさから、わざと祖父の声を忘れてしまったのかもしれない。
二度と手に入らないものを思い悲しみ続けるには、私は幼すぎた。
きっとこの先も祖父の声を思い出すことはできないだろう。

今思えば祖父が亡くなった時、もっともっと祖母と会話をしておけば良かった。
父の転勤で祖母とは離れて暮らしていたけど、電話もできたし、法事で会いに行った時にもっと祖母に寄り添うべきだった。
でも私はできなかった。
できなかったというよりやらなかった。

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当時住んでいた東京から山梨へ行くのに車で3時間ほど、渋滞にはまれば何時間かかるかわからない。
加えて私は乗り物酔いがひどく、祖母の家につく頃にはくたくただった。
祖母と話すよりもいとことDSで通信対戦をする方が楽しかったし、祖母とあまり上手くいってなかった母の機嫌が悪くなるので祖母の味方ばかりもできなかった。
あんなに楽しみだった山梨への帰省は、疲れる移動に変わってしまった。
唯一やったことといえば、たった一通手紙を書いただけ。
本当にそれだけだった。

祖父が亡くなってから4か月、ようやくみんなが祖父の死から立ち直りはじめた春の日。
祖母は亡くなった。
「春になったら桜を見に行きたい」
生前の祖父の願いを果たしたようなタイミングだった。
こんなに早く死んでしまうなら、もっとおばあちゃんと話しておけばよかった。
母の目を盗んで電話をかければよかった。
ゲームなんかしているんじゃなかった。
白い布をどかして末期の水をとった時、私には後悔しか残っていなかった。
「泣いちょ、泣いちょし」
親戚がみんな声をかけてくれたけど、当然聞きたいと求めていた声はなかった。
罪滅ぼしで書いたような祖母あての手紙が、仏壇に飾られていた。

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無事に物事がすすめば、今年の年末に私は「母」になる。
あの後埼玉に引っ越したせいか、私の言葉から甲州弁は抜け落ちてしまった。
今は頻繁に祖父母を思い出して泣くこともなければ、祖母への言動を後悔して泣くこともない。
縁が切れてしまったため、これから親戚の冠婚葬祭に呼ばれることもなければ、きっと父方の墓参りに行くこともないだろう。
結婚し苗字が変わり、私と祖父母を繋いでくれるものはほとんどなくなってしまった。
それでも私はきっと生まれた子供に甲州弁で話しかけるだろう。
夜泣きで辛い時も赤ちゃんがどうして泣いているかわからない時もきっと。

「泣いちょ、泣いちょし」

祖母の声を思い出しながら。