いつも皆から「かわいい」と言われる友人が、羨ましかった。
顔もかわいいし、歩き方とか、ちょこんと座っている様子とか、全てがかわいい。彼女は皆から親しげに声をかけられていたが、「本当は苦手なんだよね」と話すこともあった。この子が私を見つけると、遠くからでも声をかけ、近づいてくるのが不思議だったが、ずっと仲が良かった。
高校でも大学でも、そういうかわいい子と仲良くなった。クラスでも目立つくらいかわいらしい顔をした子たちだ。何故か声をかけてもらえるのは、私が彼女らを羨ましいとは思っても、嫉妬はしなかったからだろう。母からよく「くじらはくじらでいいところがある」「他人と比べるのは無意味」と言われてきたからだ。
母は本当に、自分や自分の子と、他人を比べることがなかった。だから私や弟は、嫉妬などせず、素直に他人を認められる人間になれたのだろう。

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それでもやはり、ほっそりしたその子の足と比べて自分のむちむちした太ももが気になったり、こんな男みたいな顔じゃなくて、かわいらしい顔だったらよかったのにと、思ったりもした。それでも、私にかわいらしいものなんかは似合わなかったので、思い切って髪を短くしてみたら、皆から良いと言われた。
流行りや皆がいいと思うものを追いかけるのではなく、自分に似合うもの、一番映えるものを探そう。そういうことをしていると、ちょっといいなと思っている人から、好きになってもらえたりする。

そんな中いろいろ考えて、本当に私のことを大事にしてくれる人を選んだ。彼はショートヘアも貧乳も性格も、全部良いと言ってくれた。最初はちょっと信じられなかったけど、本心らしい。いろんな人がいるものだ。
彼も完璧とは程遠いけれど、全部が良いと思う。やっと本当に好きで、一緒に居たい人と付き合うことができた。気持ちはとても楽になった。

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久々に友人たちに会うと、なんだかもったいないなと思うことが多かった。
流行りに流されて自分がなかったり、逆に流行りに対抗しすぎて謎の服を着ていたり。本人がいいならいいけれど、良さを潰しているように見えた。
いっそゴスロリとかなら、好きなものを通していて素敵だけど、これはなんか違うじゃん。自分をかわいく見せようとしてるのに、自分が見えてないパターンでしょ。かわいかった友人が、なんだかかわいく見えなくなった瞬間でもあった。

話にもついていけなくなった。自分を見ず、理想を追いかけるばかりで、地に足がついていない。いつまでも感覚が若いままなのだ。彼女をもっときれいに見せる服はたくさんあるのに、素敵な面がたくさんあるのに、見えていないのがもったいない。

これは、世間が煽るのも悪いけれど、何も考えずについてくのもどうかと思う。「バリバリ仕事をこなす、おしゃれで素敵な女性」って、それで毎日の生活のこともしてかなきゃならないとか、無理でしょ。めちゃくちゃ大変なのは、そこまで体験しなくたってわかる。それに家族で協力して生きている中、一人でおしゃれしてどうするのって話だ。おしゃれ上手で、やりくりしながら上手くやるママさんもいるけれど、普段着のママのことだって、皆好きで誇りに思っているはずなのだ。

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たまに着飾ればいい。あとは楽さを重視しよう。こういう私は、周りに必死に叩かれる。私を否定しないと支えていられないくらい、根拠が弱いからだろう。好きで着飾っているのなら、そんなことをする必要はないはずだ。
自分の欲望のまま突き進めば良いと世間が声高に叫ぶのは、大量消費社会の消費者として、踊らせるためだ。自分を見て、大事にしていたら、歳を重ね、得たものと失ったものがある自分も愛せるはずだ。
そしていい加減、現実を見るべきだ。見た目が武器になる仕事ならともかく、そうでないなら、そこにばかり手をかけても仕方ない。だってそのままの私も、そのままのあなたも素敵でしょ?安心できないのは、何か他に理由があるんじゃないか?その原因を見つけ、根本から解決するべきなんじゃないか。

仕事に関しても、身なりと持ち物をすっきりさせてから、信用してもらえるようになった。それで充分だ。

すっぴんの自分を、まじまじと鏡で眺めたことはあるだろうか。私は毎日している。
表情でも、気分でも、顔は変わる。日々少しずつ変わっているはずでもある。そういう自分の顔を見て、いいところを見つけてあげるのが、最初にすべき、自分の好きになり方だと思う。

おしゃれは楽しい。だけど、それ以外にも、楽しいことはたくさんある。そこに気がつけたら、おしゃれももっと楽しくなるし、生活自体がもっともっと楽しくなる。
アラサーで、着たいものを着るのではなく、似合うものを着ることが増えた。それまでも、似合うものを探していたけれど、そこからさらに、着られないものが増えた。
若い人たちは今、多少頑張ってでも、奮発してでも、着たいものを着てほしい。今しか着られない服は、たくさんある。いつまでも若いわけではないのだ。

その分私は、祖母が昔着ていた、何万円もするワンピースが似合うようになった。今の私だから着られるのだ。もちろんこれは晴れ着だから、たまにしか着ないけど、大事な服になった。
私も肌にはハリがなくなってきたけど、ギラギラした宝石は、年齢を重ねてこそ似合うものだと、誰だったか宝石が似合う熟女が言っていた。それでいいんだ。

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欲しいものがないから何も買わず、身なりにも清潔以上を求めなくなったら、価値観のズレから、友達は減った。4人だけになった。しかしその友達のことさえ、父は「友人ではなく、たまに会うだけの他人かもしれない」と言う。そんなもんなのかもしれない。誰に合わせる必要もないんだ。
1人は心細いけど、家族がいる。多数派になっておかないと、肩身は狭い。でも私は、ぱっと見や肩書きだけで人を判断してしまうのなら、多数派にはなりたくない。
私に対し「かわいそう」「大丈夫?」とか言って、「そんなことないよ」と言うとキレかかる彼女らには、カルシウムが足りていないのかもしれない。しかしそれだけでは、機嫌が戻りそうにない。とりあえず、絵本でも読んで、緑の中を歩いて、癒されたらいいと思う。
きっと疲れすぎているから、私になんか構わず、自分をいたわってあげてと、言わずにはいられない。