わたしが10年片思いした、ずっと忘れられないでいた彼。
そんな彼が今日、バイト先の飲食店に来た。彼と、彼の奥さんと、彼の子供と共に。
わたしは、バイトは平日の1日しかシフトが入っていない。それなのに、そのたった1日の出勤の日に偶然、彼がやって来たのだ。
予約表の名前を見ても、なんの疑いもしなかった。来店して部屋に案内する際に、顔を見て1秒もせず、わたしは彼に気付いてしまった。
わたしは厨房に戻った瞬間、「最悪」と言葉をもらしてしまった。
どういう意味での"最悪"という言葉をもらしてしまったのか、そのあと自分自身で何度も考えたけど、答えは出なかった。
経験したことのないほどの動揺と、信じられないほどの変な汗が収まらず、「これは仕事だ」と何度も自分に言い聞かせた。とにかく平常心を保って、いつも以上に全力で笑顔を貫いて接客をした。
◎ ◎
料理を運ぶ際、ドアの前に立った瞬間、彼が部屋から出てきた。
たまたまなのか、わざとなのか分からないけれど、1対1で目の前に立ってしまった以上、話さないわけにはいかず、ほんの少しだけ言葉を交わした。
何事も無かったかのように声をかける、彼。
何故か敬語で返事をしてしまう、わたし。
数年前の感覚がよみがえり、近くにいた時の彼の温もりや、落ち着く感覚、わたしにだけ向けてくれた笑顔。色んなことが頭の中に浮かんできて、悲しくなった。
隣にいても、ずっと届かなかった想い。わたしの気持ちを知ってて連絡してくる彼。
わたしの気持ちに応えてくれることは絶対に無いくせに、それでもその時は近くにいられるだけで良かった。
若かった、わたし。幼かった、わたし。
こんなにも気持ちを混乱させられるなんて思わず、ただその時の、その衝動のまま動いていた、わたし。
そんなわたしは、もうここには居ない。彼の心に"わたし"が居なかったように、わたしの心にも"彼"は、もう居ない。
◎ ◎
けれど、久しぶりに彼と出会ったら、わたしの中の彼がどれだけ大きな存在だったか
痛いほど思い知った。
「好きじゃなかった」と何度も自分に言い聞かせていた数年前の言葉は、一瞬にして覆されてしまい、きっとこの先も、わたしの中で"特別な存在"であるという事実は、変わることはないだろう。
彼にとっての特別な存在は、わたしではなくて、いま隣にいる女性であり、幸せそうに家族と過ごす姿を見て、わたしも彼以上に特別で、大切で、かけがえのない存在に出会えることを信じて、前を向いて歩いていこうと思った。
そんな、ほんの少し苦くて甘くて濃い1日の出来事。
彼は、わたしの中で、過去の人。特別な、"思い出の人"となった。
過去の人に会うことは、時に辛く、苦しく、会うこと自体を恐れてしまうこともあるけれど、自分自身が過去と向き合うことで、大きな一歩を踏み出すことが出来るのかもしれない。
決して良いことばかりではない。それでも、わたしは過去の自分を否定したくはないし、過去の自分の選択が間違いではなかったと思いたい。
全ての選択や行動が今に繋がっていて、今のわたしは本当に幸せで楽しくて仕方がないと、胸を張って、過去のわたしに教えてあげることにしよう。