泣きたいときは誰にでもあるだろう。
私にだってある。
侮辱されたとき、落ち込んだとき、悲しかったとき、否定されたとき。

涙が目に溜まってこぼれ落ちそうになるけれど、私はずっとそれをこらえて生きてきた。
私は「泣かなかった」のではなく、「泣けなかった」のだ。
泣くことが許されなかった。
でも本当はずっと泣きたかった。

「泣きたいのはこっちの方よ!」
「なんであんたが泣くのよ!」
「泣いたって時間は過ぎていくし、何より生産性がないよ」
「泣くだけ無駄」

この言葉を何回聞いたことか。
このセリフを言われるたびに私の心はズタズタになった。

泣くことは生産性がない?
そんなことは分かっている。
泣いても何も解決しない?時間の無駄?
そんなことだって百も承知だ。
でも、あなた達に一体私の何がわかるというのだ。
何も知らないくせに一方的に私を切り捨てるのは、いつだって相手側だった。

◎          ◎

泣かずにどこかへ消えてしまった私の涙。
一体どこへ行ってしまったのだろう。
口をつぐんで言えなかったあの言葉。
でももう、その言葉すら思い出せない。

言いたいこともあった。ひたすら泣きたいときもあった。
でもそれは他人から見れば「どうでもいいこと」であり、「涙を流す必要のないこと」なのだ。

私は昔から感受性が強かった。
道端で虫が死んでいるときも「かわいそうだ。お墓を作ってあげないと」と言ってよく泣いていた。
友達が悲しんでいるときも、それに共感してしまい泣いてしまうこともしばしば。
友達が先生に叱られているときも、見ている私のほうが泣きたくなってしまうときもあった。

小さい頃は泣くことは許されていたけれど、次第に「泣くこと」を「意味がない」と決めつける人たちが現れた。
子供ではない人たち。それは大人たちだった。

「そんなことで泣いちゃだめ!」
「男なんだから泣くな!」
どこかで一回は聞いたことのあるセリフ。
でも一体、泣くことの何がいけないのだろう。

◎          ◎

泣いたら女々しいからだめ?
泣いたらあざといからだめ?
泣くことには意味がないからだめ?
泣くことはただの時間の浪費だからだめ?
だめ、だめ、だめ、だめ……そんな「だめ」という言葉で括る方が、何も生み出さないのではないか?

泣く場所を失った子どもたち、大人たちはどこへ行けばいいのだろう。
彼らは決して泣き虫なわけではない。
自分のためを思い、相手のためを思って泣いているのだ。
それが本当に意味のないことなのか?
他者が「泣くことは意味のないことだ」と決めつけるのは正しいのか?

私は泣くことを我慢するようになってから、気持ちが頻繁に爆発するようになった。
「そんなことは分かってるよ!」
「できないからこんなことになってるの!」
「あなたには私のことなんてわかりっこない!」
泣きたい気持ちの行き場が無くなり、人にあたるようになってしまった。

私は最低な人間だ。
泣くことは弱いことだから、強くなければならないとでも勘違いしてしまったのか。
強い言葉で相手に対抗すれば、なにか変わるとでも思っていたのか。
……変わるはずがないじゃないか。

◎          ◎

泣きたい気持ちを心の中にしまい、強がりな自分を演じ、そんな自分に腹を立てて、挙句の果てには大切な人にまであたり散らす。
自分に失望し、こんなことになってしまったのは自分の心が弱いからだと自分を責める。
私はこれでいいのか?このままで。

いや、いいはずがない。
泣けないからといって人にあたり散らしていい理由にはならないし、泣けない理由を他者のせいにすることも間違っている。
この世界は泣くことに対して、態度が厳しすぎるのだ。

弱虫?女々しい?
他人は勝手にそう思っていればいい。
時間の無駄?何も変わらない?
泣いた時間を無駄だと思うか思わないかを決めるのは、あなたじゃない。
他人がその全てを決めることはできないのだ。

自分のことは自分で決める。
泣きたいときには泣く。
それでいいじゃないか。何が悪い?
泣いている人を見下す視線がその人を殺し、泣くことを弱いとみなす弱者が自分よりも弱い人をさらに陥れる。

この世はそんな世界だ。

私は泣くことを否定したくはない。
そんな自分を含めて肯定していきたい。
泣くことは無意味だというレッテルから、視線から、自分の思いから解放されたい。
だって、自分の気持ちは自分だけのものだから。

だからどうか、泣きたいときに泣ける人であってほしい。私もあなたも。
自分のままであれ。