小説ぼろ泣き、映画は一滴たりとも泣きはしない。
私の一番の趣味は読書。
文芸中心にいろいろ読む。日本の作家も、海外の作家の翻訳も、小説もエッセイも新書もノンフィクションも。
本を読んで泣くってなかなか数限られた人種のなせる技らしいと知ったときには驚いた。私はごく普通に10代の頃から本を読んで泣いていた。
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文章を眺めて泣くよりも、実際に傷ついた顔をしている人や、とびきり嬉しそうな顔をしている人を見た方が感情移入しやすいということなのだろう。
理屈としてはなんとなくわかる。
逆に私が解せないのは、ちょっと目元うるうるしただけで「泣けた」と言ってしまう人たちで、これは作者への冒涜なんじゃと思っている。
もちろん感激したと伝えたいのだろうけれど、じゃあ「うるうるした」と言えばいいものを。できもしない感動を簡単に言葉にしないでいただきたい。
ほんとうに泣く人は、鼻水垂らしてティッシュペーパーが何枚も必要になるのだから。
映画と本の話に戻ると、羞恥は少し関係あるのかもしれないと思う。
本は基本、1人の時に読むだろう。
映画は部屋でネット配信を見る場合もあるけれど、映画館で知らない人に囲まれて見る場合も多いはず。
もしかしたら隣に座っているのはあなたの連れで、何泣いてやがんのこいつーと茶化してくるタイプかもしれないし。
あなたは映画を見た後で電車に乗って帰らなくちゃいけないかもしれないし。
みっともない。恥ずかしい。
そんなことで感動が薄まってしまうとしたらとてももったいない。
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かくいう私も、どうして泣けなかったのだろうとびっくりしてしまう映画館での思い出がいくつかある。
とてもよかったと感じていたり、周りの人が泣いていたり、まあ涙腺ゆるゆるの私は泣くであろうなと想像できるもので。
全てに共通していたのは、私1人で見に行ったことと、同じ映画館であったこと。ただしスクリーンはきっとバラバラだろう。覚えていない。
前もってあらすじを知っていたものもあるし、原作小説を読んでいたものもあったかもしれない。ドキュメンタリーっぽいものもあった。
ただしそういった要素は全てに共通しない。
映像なら泣けるけど、小説では泣けない人がいるらしい。
私は小説では泣けるけど、映像では一滴の涙も出ないという経験が何度かあるのだ。
これはどういったことだろう。
私は先程、できもしない感動を簡単に言葉にするなと書いてしまったので、ここでそれらの感動っぷりを語ることは憚られる。
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人はどういう時に泣くのだろう。
自分でも、えっなんで泣いてるの、と戸惑った経験はきっと多くの人にあるだろう。
何をどうしたら人は泣きたくなるのか。
嬉しくても、悲しくても、それが過度だと私たちは泣いてしまう。それは私たちが弱いからなのか。そうなら、泣くことは恥ずかしいことなのか。
そうではない気がするのは私だけなのか。
自分の、他者の、涙のわけを知りたい。
それを知ることは、自分を相手を理解することに繋がるのだろうか。
映画館でなぜか泣けない経験をする度にきっと私は考える。