小学校6年生の運動会の予行練習が終わった後、担任の先生の言葉でクラスの雰囲気が凍った。新卒で採用されて3年目の、若く溌剌とした女性の先生だった。
「本番で悔し泣きするくらいなら、もっと一生懸命練習しろ。どんな順位でも、一生懸命練習した結果なら、涙はでないはずだ」
どういうこと?と思った。
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私の通っていた小学校の運動会では、各学年の同じ組がチームになり戦う。その日の予行練習では、私たちのチームは4チーム中3位だった。
誰も泣いている人はいなかったが、体育の授業で嫌というほど練習した競技を精一杯やり遂げたことはクラスメイトの疲れた顔から察せられた。私個人は運動会を小学校生活最大の謎イベントだと捉えていたので(私はかなり運動が苦手だ)、この苦痛な時間が早く終わればいいとしか考えていなかった。だが、運動音痴の私も私なりにチームみんなに迷惑をかけてはいけないと、人並になれるように限りなく努力をしていたので、先生の発言には面食らった。
一生懸命練習している気がするけど、まだ足りないわけ?
しかも、小学6年生当時の10年ほど生きた経験から、大人は年下の悔し泣きを見て喜ぶものだと認識していた。甲子園しかり、オリンピックしかり、悔しいと泣く彼ら彼女らを「尊い」とか「感動」の言葉で讃えているのをよく目にしていたから。悔しい思いをバネにしてなんぼ、なんて思っていそうな先生からそんな言葉がでてくるなんて意外だった。
それで10年以上前のことなのに忘れず、今でも先生は私たちに何を求めてそんな言葉を口にしたのだろうか、とたまに考える。
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どういう文脈で先生がそう発言したのか、全ての詳細を覚えているわけではない。だが、先生の立場から見ると、競技に参加する態度が一生懸命ではなかったとか、最高学年としてチームを引っ張らなければ、という気持ちにさせたかったのではないかとか、勝手に解釈している。けれど、どれもしっくりこない。
さて、運動会本番は、予行練習と同じ3位だった。優勝できたと嬉し涙を流すクラス、2位だった4位だったと悔し涙を流すクラスで、同学年のフロアはがやがやしていた。
私たちのクラスだけは運動会が終わった後も泣かず、教室はしん、としていた。
「ほら、一生懸命に頑張ったから、涙は出ないでしょう」
先生は確かめるように言った。
そんなわけないだろ、予行練習で先生が「泣く=一生懸命頑張らなかった」という評価になると宣言したからだろ。生意気かもしれないが、先生は予行練習での自身の発言を正当化するために泣かないで欲しいと、私たち児童に期待しているようにも見えた。
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私の席は教室の一番後ろにあった。クラスメイト全員が前を向き、黒板の真ん中に立つ先生の話を聞いていた。同じ体操着を着て、似通った白い背中が並ぶ光景は少し不気味だった。
私は早く帰りたいな、としか思っていなかったけれど、3位という結果に涙がにじんだクラスメイトもいたはずである。それでも全員が、先生のいうことを忠実に守っていた。
先生って、私たちの行動だけでなく感情までコントロールできた気でいるんだ。なんか気持ち悪いな。感情って誰かに強制されるものなのだろうか?
クラスメイトに確かめたりもできなかった。クラスメイトも先生と同じ考えで、一生懸命やらなかったのか、と糾弾されるのが怖かった。
正直、先生の年齢を追い越した今も、先生の言いたかった本心を理解できない。涙は自分が流したい時だけ流したい。もし、小学生の自分に声をかけられるとしたら、まあ、泣きたきゃ泣けばいいんじゃない?と言いたい。