仲の良い人に、年1ぐらいのペースで「性根が腐ってる」と言われる。
才能もないし、太ってるし、彼氏もいないし、金もない、仕事はギリギリやってる、絵も描けないし、ピアノもまともに弾けないけど、性格はいいんじゃないかと思ってた。ただそれもなんか違うらしい。
「性根が腐ってる」と言われる理由は、人によって異なるっぽい(主だった理由は私の脳が消去しているのかもしれないが、よく覚えていない。というか理由、誰か述べてたか?)。
その中で唯一覚えていることは、人のために泣けないということだ。単純に薄情らしい。自分には共感力がないのかもしれない。

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春先身内の不幸があり、そのことで母親と揉めた(あんまりネタにしたくないので、詳細は控える)。自分のためじゃなきゃ泣けないのか、不幸が悲しくないのか、たぶんそんな感じの内容だったと思うし、そういう風に解釈している。もちろん不幸自体が悲しくないわけではないのだが、その裏の事情も過程も近くで見てきた分、泣くに泣けなかったというべきか。
何度も心の中で「私はしっかりしなきゃ」と鼓舞し、いろいろあったその時期は文字通りずっと歯を食いしばっていた。それでも大粒の涙を流して泣かなければ、悲しいとは思ってもらえないのだろうか。母親とはそれ以後なんなら、これを書いてる時も別件で私が薄情だよねっていう話になった。なんてタイムリー。

またある時は結婚式に出席した時。周りの先輩たちが円卓でティッシュボックスを回して涙を拭っている中、1人で結婚式料理を嗜みつつ、スピーチを聞いていた。
いい話だなぁとは思うのだが、あのフレーズはいい言い回しだなとか、めちゃくちゃ練習したんだろうなとか、自分だったら何て言おうかなとか、たぶん見所を間違っている。

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人のために泣けないということは、自分のためでしか泣けないということだ。
否定はできないと感じる。自分が泣く時を考えると、好きなアイドルのライブで自分を肯定してもらったと感じる時や、なんかが上手くいかない時など、恐ろしいほどの自分軸ばかりだ。
結婚式はさておき、身内の不幸は自分ごとのはずだ。だが、自分の中でカテゴライズがなぜか違うのだろう。巷で泣ける映画や泣ける曲と言われるものを見聞きしても泣けないし、なんなら「ふーん」くらいの感想しか出ない。感動場面だぞ!という周りの雰囲気に、「まずい!適切なリアクションがとれない」と思ってしまうこともある。

そうは思ってもそれを改めようとか、上手く立ち振る舞いたいとは1ミリも思っていないのでどうしようもない。薄情なら、薄情でしょうがないという一種の諦念、開き直りみたいなものだ。こういったところが、「性根が腐ってる」と言われる所以なのかもと自分なりに分析した結果である。言われた理由を忘れたくらいだ。あんまり刺さってないのだ、自分には。

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でも人のために泣ける人ってすごい人なのかもしれないとは思ってる。決して馬鹿にはしていない。
そもそも泣いている人たちは、なんで泣いているのか。そこを考えたことはなかった。もしかしたら自分の中の思い出を思い出して泣いているのかもしれない。だったら、自分のために泣いていることになるじゃないか。
相手がいる時に泣いているから、誰かのために泣いていることになっているだけで、みんな自分のために泣いているかもしれない。そう考えることにしよう。