あなたには今でも「先生」と呼べる人はいますか。
学校の先生だけでなく、塾の先生、体操教室の先生。いませんか?
私にはいます。

今もそうですが、学生時代も、ものを書くことが好きでした。
文字に限らず、絵画も描きましたが、後者は周りに上手い人がたくさんいました。
でも文字ならその辺の生徒に負けない自信がありました。
実際、作文か何かで賞を受賞させてもらったりもしました。
その自信が私を傲慢にさせました。
あれがダメ、これがダメ、と他人の作品に口を出し始めたのです。
その行為が疎まれていることにも気づかないほど、傲慢になっていたのです。

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慢心から目を覚まさせてくれた先生がいます。
通っていた塾の国語の先生。本業は劇作家で、一言で言うと「風変わりな」若い男性でした。
夏休みの課題は「夢日記をつけること」でした。

ある時、未完成の台本を読ませてもらえる機会がありました。
「劇の台本ってどんなものだろう」と、一ページ目をめくりました。
二ページ目、三ページ目、とめくりました。
自分の自尊心が、そこでガラガラと崩れ去っていく音が聞こえました。
そこにあったのは、先生の「怒り」「悲しみ」そのものでした。
一から作り上げていく作品には感情が反映されやすいのだろう、とぼんやり思ったのを覚えています。
自分の文章の稚拙さに嫌気がさし、他人にあれこれ口出しするのはもうやめよう、ともその時思ったはずです。

そこからは、先生を(物理的にも精神的にも)追いかける毎日でした。
塾のたびに先生に絡み、時々自分の作品を持ちこむ。批評をお願いする。
学校から帰ったら、パソコンに向かってひたすら文章を書く。
あるときは怒りを込めて、またある時は喜びを表して。
先生のようになりたい。先生みたいに、文章で感情を伝えられる、そんな風になりたい。
受験勉強なんか放っぽりだして、それだけのために塾に通いました。
そんな日を何日も何日も続けたある日、先生はニコニコしながらこう言いました。
「ラグは文章書くのが好きなんだねえ。拙いけど、一生懸命なのは伝わってくる」

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情緒が一気にぐちゃぐちゃになりました。
いつの間にか、先生の背を追いかけたつもりになっていたんです。
あの台本を読んだ日から、私は先生みたいになりたくて、感情を文章にうまく乗せているつもりになっていたんです。
先生、私は、スタートラインにも立てていなかったの?

そこからもう批評を求めるのも、文章を書くこともすっぱりやめてしまいました。
時々「せっかくだから来ないか」と誘われるので、先生の書いた舞台を観劇することもありました。
どれもこれも感情がストレートに乗せてあって、私の自信はより一層萎んでいきました。
家庭の事情で私が塾を辞める段階になって、先生は2冊の本をプレゼントしてくれました。
十何年前の話ですし、私は根っからの電子書籍派ですが、その本だけは大切に保管し、時々読み返しています。

社会人になった今でも先生と呼べる人は、あの人だけです。
時々思い立ったように文章を書きますが、先生の存在がちらついて、今でも自信がないままです。
尊敬や信仰や執着に似た感情を、私は今後一生持ち続けていきます。