自己肯定感というものが私にはない。
たまになにか褒められても、お世辞や適当なコミュニケーションの一種としか捉えることができない。
“自己肯定感”がないということは、つまり自分に自信がないということである。
自分に自信がないことの原因はいくつかある。
見た目をからかわれた過去や、他人と比較して劣ってることに気づいてしまった過去など。
それらは自分の努力と意識でどうにでもできる。
けどしてこなかった。それすらもできない程、私は私を認められない。
そんな私に、自己肯定感をさらに持たなくさせる出来事がやってくる。
◎ ◎
私は幅広く人と付き合うのが苦手で、少数の、もしくは1人の仲良しといつも一緒にいた。
高校生の時もそうだった。
彼女が休むと、みんなは先生にではなく私に尋ねてくる。
それくらい周りにも私達の“仲良し”は知れ渡っていた。
1年の冬、ある出来事が起こる。
それは、以後彼女が周囲には一言も漏らすことのなかった秘密。
私だけが知っていた。というより、“仲良し”である私は知っておいた方がいいという、先生の“粋な計らい”だった。
その“粋な計らい”にその後苦しめられようとは、私も、そして彼女も、その時は知らなかった。
あと3ヶ月で2年生になるというタイミング。
私は、彼女に対して何か出来ることはないか、支えになってあげないと、と自分で自分を勝手に追い込んで、精神を病んでしまった。
本当に辛いのは彼女の方なのに。
通ってた高校は、2年生になる時のみクラス替えがあった。
そこで違うクラスになれば、私も彼女も心機一転、前を見て歩いていけるだろう。そう思っていた。
春になり、新しい教室へ行くと、彼女がいた。
また“粋な計らい”だった。
私の隣の席の子が1年生の時にも交流のある子だったのが救いで、その子とばかり話すようになった。
彼女のことは半分“ハブ”状態で。
◎ ◎
それまでの私は、どこか被害者意識を強く抱いていた。
「あんな奴らのようにはなるまい」と思っていたのに、私は私を傷つけてきた奴らと同じレベルになった。
卒業までの間、話すこともあったし、2人で遊びにも行った。
私も人間の子なのだな、と思ったのはそのとき心苦しかったからだ。
卒業してからは一度も会っていない。
連絡も、とっていない。
自己肯定感というものが私にはない。
持っていちゃいけない。
抱いていた将来の夢も、17歳で手放した。
そんなこと、思い描いちゃいけない。
こんな私が幸せになっちゃいけない。
のうのうと生きていることさえ、許されない。
25歳くらいまでこんなことを普通に思っていた。
彼女に許してほしいとか、そんなことは言えないし思ってない。
あの時のことを、彼女のことを、忘れることはない。ずっと背負っていくつもりだ。
けど、いい加減、自分で自分を苦しめるのはよそう。
嫌われてない人なんていないし、私だって嫌われていいと思ってるじゃないか。
この頃、そんな風に思えるようになった。
だからこうしてエッセイを書くことにチャレンジしている。
これからやってみたいこともある。
勝手に枷をつけて、それを言い訳にしてやってこなかったアレコレを、今からやってみてもいいじゃないか。
嫌われることを恐れていたわけではない。
誰しも、人を傷つけてしまった過去はあるだろう。
“私だけが特別”という、悲劇のヒロイン的な思想を、今捨てようと思う。
未来に想いを馳せようと思う。
それは“今”だからできること。
あれから10年経った今、私はやっと、顔を上げ、歩きはじめた。