私は長年、周囲に友達がいなかった。理由は簡単。小中学生時代にいじめに遭い、周囲が私を意図的に孤立させたからである。
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中学にはスクールカーストがあり、私はその最底辺に追いやられていた。だから私と一緒にいると、その人も私と同じ扱いを受けることになる。事実中学2年生で習った数学の「同類項をまとめる」という項目になぞって「栃木とどうるいー」という冷やかし言葉があった。
学校行事の時も、教室移動の時も、私はいつも一人であった。時には授業で二人組になるものであぶれ、その授業にはろくに参加できないこともあった。それでも私に気をかけてくれる人は殆どと言っていいほどいなかった。時には筆箱を忘れ、周囲に筆記用具を貸してと言えず、昼休みにようやく図書室にある鉛筆を借りて使ったようなこともあった。
一方、片付け事となると私の存在は顕在化されるようで、生徒によっては執拗に利用してくる者もいた。それでも学校に行かなくなることで進路が狭まってしまうことや両親に心配をかけることが嫌で、学校に通い続けた。
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卒業式の日、私は誰とも関わることなく、式終了後は真っ先に帰宅をした。それまで迷惑をかけるまいと両親には悟られないようにしてきた事実が、一気に浮上することとなった。
私は今後、誰とも関わることはないのだろう。いや、いい大学に行って夢である作家と公務員になって、もっといい人たちと関わりを持とう。私はそもそもみんなとは合わないんだ。そんな夢と希望すら湧いてきた。
実際、成人式にも参加せず、それから何年もの間私は地元の人や同級生と関わりを持つことはなかった。
中学卒業後から初めて関わりを持ったのは、私立中学に進学した先輩だった。
先輩とは一度小学校で同じ掃除場になったことがある。それ以降全く関わりがなかったが、どこか興味関心が似ている気がした。
当時先輩は文系の修士課程の大学院生で、同じ道に進もうとしていた私は一気に親近感が湧いてきた。その時はもうFacebookで繋がることができる時代で、早速連絡を入れると互いの研究テーマを話し合ったりしていた。
その他、ラデュレの話やフランス文学の話など私たちにしか通じないであろう話も多く、地元で知り合った文系大学院生独特の空気を醸し出した関係であった。私は一部の人としか興味関心を共有出来ないのだと、地元になじめなかった理由を大いに納得した。
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それから数年の月日が流れ、次第に同級生や同じ中学の先輩後輩とも関わるようになった。それも私からではなく、周りが私に声をかけてくれるようになっていった。
「友人だから会いたい」と下宿先まで会いに来てくれた友人、公務員試験や作家になるための方法について知りたいと頼ってくれる友人や後輩。部活動に関心がある私に対して情報を提供してくれた友人。まだ少ない方かもしれないが、私を肯定してくれる人が確実に増えていった。
10年以上も前の話は黒歴史も思い出話。思い出作りのきっかけが少なかった私は、些細なことでも事細かく覚えている。周囲との関わりを持てなかった当時は、あれほど思い出の分が受験の記憶に結び付けばいいと思っていたが、いざこういう時には役に立った。学部、大学院では教育社会学を専攻したが、それは思い出の枯渇によるものだったのかもしれない。
私は誰よりも学校文化を愛していた。当時は共有できる情報も遮断され、何も知ることが許されなかったが、時を経て教わる内容はより興味深い。それは時を経て周囲のみなが私を認めてくれたからある世界である。
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実際はまだまだ私に偏見を持つ同級生も多いようで、その中で相手をしてくれる友人たちはみな優しい人たちだ。だからこそ、私はある意味で友人に恵まれているのかもしれない。
時を経て友人となってくれたみんなへ、この場で伝えたいことがある。
「みんな、こんな私を頼りにしてくれてありがとう」