朝、公共交通機関から降り、会社まで数分の道のりを歩く。雨の日も、爽やかな秋風が吹く晴れの日も、朝が弱い私は大体少し不機嫌だ。
そして、ビルとビルの間から、ひょっこりと会社の白壁が見えてくると私はスイッチをオンにする。
必殺仕事モード。
と、心の中で唱えながら。
私だけではなく、このエッセイを読んでくださっているあなた様も含め、きっと多くの人が自らのスイッチをオンにしたりオフにしたり、モードを切り替えたり……。そうして日々、暮らしているはずである。

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「朝から本当に明るいね〜!」
すれ違った上司に挨拶をすると、よくこの類のお褒めの言葉をいただく。
「明るい挨拶と笑顔」「ポジティブ思考」「真っ直ぐ伸びた背筋」に関しては社内で1番だと褒められるし、私もそうあれるよう努めている。
「私の隠しごと」というテーマでエッセイを書いている以上、多くの読者のなかにある疑念が生まれることが懸念される。
「フィー子とんでもねぇ腹黒女説」である。
そういえば、小学生の時も「実は腹黒だったりする?」と友達に聞かれたこともあったっけ。
冒頭、「必殺仕事モード」という言葉で表現をしたが、社会人になるよりも前……小学生の頃には完全にモノにしていたわけだから、恐らく物心ついた時から、私はずっと、このスイッチのオンオフを行っている。
しかし、どうか、その妙に感じの良い外面の裏に、一体どんな黒い感情を隠し続けてきたのかと思わないでほしい。

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日本にも、世界にも、比べ物にならないくらい苦しんでいる子供達が山ほどいることは勿論承知の上で、私は、私の目で見える「周りの友達」という狭い世界のなかでは、悲しいことが多いほうの子供だった。
それは私の家庭の事情に関係しているのだが、ここで詳しく述べることは避けたい。ただ言えることは、いつも家庭はどんより暗く、私も家族も泣いたり喧嘩をしたりしてばかりだった。
私の「ただいま」に対して返ってくる母の「おかえり」の声音で、家で過ごす今日の残りの時間がどのような雰囲気なのかが予想できた。だから、学校から帰って玄関のドアを開けるとき、憂鬱で怖かった。
友達からの遊びの誘いをよく断ること、翌日泣き腫らした目で登校すること、長期休暇の作文や日記に書けるような思い出がないこと……。
これらのことも、嘘と笑顔でなんとか誤魔化した。そうやって友達にも先生にも悲しみの片鱗さえも見られないように、明るく笑顔で生きてきた。

この「隠しごと」は、もはや体に染みついている癖みたいなもので、何故ここまで明るく笑顔でいるのか、明確な理由は私自身もよく分からない。
だが私の性格から考えるに、たぶん悔しいのだと思う。周りの人より悲しいことばかりでも、悔しいから暗い顔をしない。誰よりも幸せそうに生きていきたいと、そう思っているのだと思う。
それに、降りかかる悲しみに負けたくないし、いつも明るく笑顔でいれば、いつかいいことがあるのだと信じていたい。

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と、まあ、こんな感じで生きてきたので、どんなに心の中が暗くとも、他人の前ではその片鱗も見せずに振る舞えるし、傷つくことを言われてもその場ですぐ笑顔をつくり誤魔化すこともできる。
同じ部署の方々曰く、私は「メンタルおばけ」なのだそう。人並み、いや人並み以上にしっかり傷ついていますけどねー……と心の中で呟く。一方で、上手く隠せているということなので、褒め言葉でもあるのかと思ってみたりもする。

先日、歳の近い会社の先輩とサシ飲みをした際、こんなことを言われた。
「フィー子さんの挨拶のファンなんよ。理想の挨拶よ、いつも元気を貰っております……」
単純に嬉しいし、ますます頑張らなくては、とも思う。
そして先輩は続けて、
「悲しいこともさ、辛いこともさ、あると思うのに、そんなん見せずに毎日明るく笑顔で、礼儀正しい挨拶して、すごいなあ、っていつも思ってた」
「フィー子さんが笑って流してるから大丈夫だと思って、色々先輩や上司がいじってるけど、それにもちゃんと対応してるのもえらい。でも、気にすることもあるのにねっ」
心の中で何かがほどけていくような感覚になった。その温かい感覚に、思わず私の口から
「そうなんです……!」と言葉があふれていた。
お酒を少し飲んでいたのもあって、「私は子どもの頃から……」と言ってしまいそうになった。
自らの家庭のことまで話しかけた。危うく。
「そうですよ、私だって傷つくことは傷つきますからね!寝たら忘れちゃう節はありますけど!」
と、いつもの調子で笑う。

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いけない、いけないと、先程ほどけたものを締め直す。
この先輩は、よく人のことを見ているなぁと常々思っていたが、ちゃんと私のことも見抜いてこんな優しい言葉をかけてくれるなんて。
それだけで私は嬉しい。だから、やはりどこまでも「そんなん見せずに毎日明るく笑顔で」振る舞いたい。
だが、そんな先輩と少しだけ私の秘密を共有したいという気持ちもある。これから先、先輩の「隠しごと」を少しでも聞き出せたら、私の「隠しごと」も話してみてもいいかもしれない。
全部は話さない。少しだけ。
きっとその「少しだけ」こそ、丁度いい気がしている。