私は見切り品の商品を買うのが好きだ。
フリーマーケットで誰かが使わなくなったものを買うのが好きだ。
古着を買うのが好きだ。

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新品を買うというのがなんとなく苦手で、出来ることなら全てリユース・リサイクル商品を買いたいと思ってしまうほどだ。
また、食品ロスを少しでも減らしたい気持ちがあり、スーパーでの見切り品コーナーのチェックは欠かせない。
なぜなら、新品を買うということは、そのアイテムのファーストオーナーとしての責任を背負うことになるからだ(食べ物の場合は他人に引き継ぐということはあまり無いことだけど)。

ファーストオーナーになったからには、そのアイテムが不要になった際に捨てるも、セカンドオーナーを見つけるも自分次第になるのだが、私の場合、次のオーナーや使い道を見つけられず捨てることになった時の罪悪感が耐え難いのだ。
だったら、自分はそのファーストオーナーに課せられる重い責任感みたいなものから逃れたいという気持ちと、リサイクル業界を応援したいという気持ちから、新品を好まないのである。

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でも、なかなかこの気持ちは他人には伝えにくい。
スーパーで見切り品を買っていると雑談に交えて両親に話した時、「そんなにお金に困っているの?」と心配される。
リサイクルショップで掘り出し物を探したり古着ばかり着ていると、「社会人にもなってまだ古着着てるの?」と友達に呆れられたりもする。
なぜだかお金に困っていて、かわいそうみたいに思われてしまうのである。
別にお金に困っているからという理由でセカンドハンドの商品や見切り品を買うこと自体、何も恥ずかしいことではないし堂々としていればいいのだが、私の行為は私なりの意図があってやっていることなので、見当違いなことで他人に批判されるのは耐え難い。
だから、自分が普段どうやって生活しているかはあまり他人に話さないようになり、結果的に私には隠し事ができた。

私にとって、自分がどうしたいか、どうありたいかをよく考え、それを行動にうつすというのは大きな喜びだ。
その喜びを誰かに理解してもらう必要もないし、批判されて傷つく必要もない。私は私の楽しみを密かに守るため、隠し事を作ったのである。

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今まで誰かに隠し事をすることは、なんだか後ろめたい気持ちになるので出来れば避けたいことだった。
でも、隠し事が出来て気づいたことがある。
少年漫画の主人公みたいに天真爛漫に誰にでも開けっぴろげに生きることが、正しい訳でも性格が良い人な訳でもない、ということだ。
人と人は元々分かり合えない生き物なのだ。だから、自分のことをわかってもらえない、なんてことは、悲観すべきことではなく当然のことなのだと思う。
たまたま、誰かに賛同されたり共感してもらえることがあるのは喜ばしいことだけど、自分の考えに否定的な態度を示す人だって当然いるものだ。
だから、話す人を選んだり、自分の心の中だけにこうしてこっそり隠しておくことも、自分の楽しみを末長く楽しむために必要な心がけなのではないか、と今は思う。

隠し事はこれからも増えていくかもしれない。
でも、これからは隠し事を楽しめるちょっと大人になった自分を楽しみたい、とも思うのだ。