「はあ〜」
今日という日が始まってから何回目だろうか。
マスクを通り抜けたため息は、ブラジルまで貫通する勢いで床へと落ちていく。
このまま時が止まってしまえばいいのに。
そんな願いも虚しく、規則正しく開く電車のドアから一歩足を踏み出す。
「今日も始まる」
誰とでも当たり障りなく関係を築くことができていた私が、初めてもがき苦しんだ、今となっては何でもない彼女との話。
◎ ◎
入社一年目、私たちは現在所属する部署初の新入社員ということもあり、同期を含め、私は先輩方から多くの愛情を受けすくすくと育っていた。
その中で一人、入社当初から苦手とする先輩がいた。彼女は違うチームの先輩で、普段はほとんど関わりがなかったが、挨拶しても無視は当たり前、さらに時々仕事を共にした際の態度がとんでもなく冷たかった。
私の業務に彼女は何かと首を突っ込んできた。もちろん経験年数的にベテランの彼女の意見には正しいことも多く、納得できるものに関してはアドバイスとして参考にさせていただいた。しかしその中には明らかに間違っているものも少なくなく、他の先輩に仲介に入っていただきながらなんとか対処していたものの、なぜ彼女がそのようなことをするのか、私には理解ができなかった。
自分で彼女に意見を言えたらよかったのだが、彼女と対峙するとまるで蛇に睨まれたカエルの様な気持ちになり、まともに返事をすることさえままならなかった。
不満以上に募る彼女への恐怖心から、彼女と一緒に仕事をする日は、出来るだけ彼女と話さないように、常に彼女の機嫌を伺いながら業務を立ち回るという仕事のやり方をする様になった。家に帰り着く頃にはどっと疲れ、恐ろしいほどに肩と首が凝っていた。
◎ ◎
「ちょっとご相談があるのですが」
一年目の秋、同じチームの先輩に時間をとっていただき、私は彼女とのことを洗いざらい話した。その際に、これまで彼女にされてきたことを時系列にまとめたデータがあること、さらに同期も同じ様に彼女に対して悩んでいる証拠も押さえている事を伝えた。
今思えばかなり脅迫じみたことをしたなと、我ながら肝が据わっていると感心する。
やはりそれらの情報はてきめんで、私が相談した日以降、彼女の言動や行動が私を含めた同期に悪影響を及ぼしていないか監視が入る様になった。
それでも時々は彼女から心無い言葉を受けることもあったが、格段に良くなった状況に私は少しだけ救われていた。
そうして過ごしているうちに、一年目もいよいよ終わる三月、新たなチーム編成で私は絶望のどん底に突き落とされた。
なんと彼女と同じチームになってしまったのだ。
正直その結果を聞かされたときは、組織というものに対する信用がガラガラと崩れ、二年目に早くも病んで辞めてしまうかもしれないなというところまで考えた。しかし実際のところ、私はそこで彼女と距離を一気に縮めることになった。
私が新たに覚えることになった業務は彼女の専門分野で、私は彼女に約半年の訓練を受けることになった。
正直始めるまでは絶望でしかなかったが、いざ始まると、彼女はとても丁寧にわかりやすく教えてくれたのだ。もちろん少し棘のある言い方もあったが一年目に感じてきた氷のような態度はどこかへ行ってしまったのだろうかと疑うほどに彼女は優しかった。
◎ ◎
そして私はふと考えた。一体何が彼女をあんな風にさせていたのか。
これに関しては憶測だが、一つ目は同じチームではないため、普段の関わりが薄く距離感がわからなかった。二つ目は、彼女の専門ではない仕事しかしていなかったため、距離をつめる手段がなかったことではないかと思う。
いずれにせよ、距離感が変わったことで、彼女とのいざこざが綺麗さっぱり水に流れてしまったのだ。
現在、彼女は他部署に移り話す機会も減ってしまったが、時々メールで彼女に連絡を取り、近況を伝え合う仲が続いている。正直、一年目に受けた仕打ちを忘れることはないだろうが、それでも今の彼女との距離感には非常に満足しているため、これからも交流は続くだろう。
社会の中で、どうしても逃れられない人間関係というものは存在すると思うが、少しだけ距離感を変えてみたり、時間を置くことでその関係性に少しの刺激が加わり変化することを彼女は教えてくれたのだった。