趣味で知り合い、友達ができた。3回目にあった時に告白されたが断った。
「友達でいいから」と言われ、彼氏の許可も得て、関わりは続けることにしたが、それにしても頻繁に連絡が来る。彼氏のことも知りたいからと言われ、本人の許可も得て彼氏の連絡先も伝えた。仲良くできるんじゃないかと思っていた。

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その友達は、私にいろいろ言い寄ってきた。彼氏に相談するも、忙しいからと放っておかれる。「彼氏さんがいいと言っていたから」と誘われることもあったが、断った。
いくらなんでも、異性と二人で外出するというのはいかがなものか。しかし彼氏には「行ってくれば?」と言われる。悔しかったので行ってきたが、彼氏に放って置かれて悲しくて、涙が出そうになった。

「なんで構ってくれないの?」と不満を漏らしたことをきっかけに、彼氏と大喧嘩になり、あの友達が彼氏からの許可なんて何も受けずに、私を誘い出していたことを知った。「彼氏さんから、くじらさんを取る気なんてない」とか言っていたが、全部嘘だったらしい。

SNSに載せている、その友達の写真はきれいだった。本人もきれいな顔をしているし、撮り方や見せ方も上手いんだろう。最初はそういうものを見て、いいなと思っていたが、今は思い出すだけで吐き気がする。上っ面のいい面しか見せないその人は、お腹の中が真っ黒だった。

しかし当然、私にだって非はある。ちょうどその直前に、SNSのことで悪く言われることがあった。私はかがみよかがみとラインくらいしかしていない。インスタもツイッターもしていないことは、おかしいことらしい。
そんなこともあって、私は自分がSNS映えする人間ではないことを恥じていたんだろう。そんな自分を肯定するために、その友達を迎合したところがあったのかもしれない。違和感もあった。

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本当に私はバカだった。少し考えれば、嘘だって分かったかもしれないのに、何も考えていなかった。関わっていてしんどいのに、相手が私にとって疲れる相手だと認めようとしなかった。あちらが全面的に正しいから、それを否定することは、自分が社会から外れた存在だと認めることのような気がしていたのだ。そんなことはないのに。

以前、調べ物をよくしていた時があった。私はネットからはうまく情報を見つけられず、本や雑誌に頼ることが多かった。その中で、本当にかっこいい人って、紙面じゃないとなかなか見つけられないということに気がついた。
自分から何かを発信することも大事だけど、本当にかっこいいなと思う人の多くは、人に請われて発信する。それまでは一生懸命、自分のすべきことに力を注ぐのだ。だから、「この人素敵!」と思ってネットで調べても、本人が書いたものなどは出てこないことが多い。よくて対談や公演の動画などだが、これも無許可であげるわけにはいかないので、そう多くはない。

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最難関と言われる大学近くのアパートに、観光がてら泊めてもらったことがあった。早朝に部屋を出ると、半分以上の郵便受けに新聞紙が入っていた。ここには学生しか入居していない。新聞紙だって安くはないのに、わざわざ購読している。お金をかけてまで、新聞が読みたいんだ。

ここと同じ大学の人から「通学時間が長いから、電車内での読書が捗る」という話も聞いた。皆、紙から情報を得ている。ネットが悪いというわけではないし、紙面の情報でさえ、いつも必ずしも正しいとは言わないけれど、画面ばかり見ていたら、大事なことを見落とす。

いつも笑顔で、人当たりがいいその友達の、嘘で固め、きれいに作られた面しか見ていなかった。それしか見せないのがネットだ。そんなもので人を判断していた自分を恥じた。
そしてその人はもう友達でもなんでもない、二度と関わらない、最低の人だ。中身が何もなくて、未熟で愚かな人だ。

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私の身近なかっこいい人たちは、自分の出来ることを一生懸命して、スマホも持っているけれど、ネットより読書などを大切にしていた。たまたまかもしれないけれど、多くが紙の本を好んでいた。急な出張の際、キオスクで本を購入して読んだという人もいる。そしてとにかく、よく動く人たちなのだ。

私が生活上関わる人たちには、やはり携帯の情報を好む人が目立つ。それは便利だし、私も使う。でも私は思い切って、①彼氏との連絡、②最低限の業務連絡、③図書館のサイトページを見ること、④かがみよかがみに関すること、以外で携帯を開くことをやめた。
あの人は、「かっこいいでしょ、素敵でしょ?」と私に迫ってきたけれど、本当に素敵な人はそんなことはしない。そういうことを判断できる目を養っていきたい。