大学生の頃、私は色んな課外活動をしていて、学生団体に入っていた時期もあれば、社会人と学生向けのワークショップを企画していた時期もあった。だから、何十歳も年上の大人と関わることが多かった。

◎          ◎

当時学生の私にとって、社会人の大人と知り合いになることには全く抵抗感がなく、怖いという感情もなかった。誰かに教わったわけでも、ネットで勉強したわけでもないけれど、立場と年齢の異なる大人との関わり方を自分なりに実践していった結果、私は天性の「世渡り上手」である一面を知った。
もちろん最初はきちんと敬語で挨拶をするけれども、数回に一回くらいは急に「ですます」調で話してみる。そうすると、初対面であっても、あっという間に打ち解けたりする。
相手に不快感を与えることはせず、どこかのタイミングで「あっ、つい、くだけた言い方をしちゃいました。○○さん話しやすくて」と一言添えるだけで、「全然いいよ」とOKサインがもらえる。「距離の詰め方が上手いね」とよく褒められたし、冗談半分で「年上キラーだね」と言われることもあった。

前もって伝えておきたいけれど、私の恋愛エッセイでは、男性と女性の間の恋愛と結婚を前提にしている。だけれど、同性同士であっても、そもそも自らの性をある一つに定めなくても、愛する二人の人間がその愛の証明として結婚というものがあればいいと、私は心から思う。

私の今までの恋愛の相手、結婚しかけた相手、身体の関係を持った相手、デートの相手について考えてみると、同い年は一割以下。年下も一割以下。ほどんどの相手が年上だった。
決して「年上男性」への憧れがあるわけではなく、私は実年齢よりも精神年齢の方がきっと少しだけ年上なのだと思う。
相手が私より年上ということは、結婚や子育てが思考の射程範囲である年齢。将来の話になることも多く、実際私は結婚しかけたこともあったし、将来に関する価値観の違いで別れたこともあった。

◎          ◎

ある昔の恋人と別れを告げた頃、彼は私に、あるメッセージをくれた。
「かおりんにとっては、これから『この人の子供を産みたい』と思えるような人と出会って、その人と時間をたくさん過ごせることが幸せだと思う」と。都会の騒音から離れた小田原で、快晴の青い空と青い海を見つめていた私のスマホに届いた通知。
そのとき、私の隣にいたのは、「彼氏」「恋人」という言葉では言い表せないような、新たな名前をつけたいようで言葉が見つからないような、そんな大切な関係性の人だった。スマホを握りしめながら、胸のざわつきを感じていた。

「どうした?」と言う隣の大切な人に、昔の私なら「なんでもない」と答えていただろうけれど、最近の私は隠し事もやめて素直に生きることにしたから、正直に「元彼からのメッセージ。私の幸せを願ってくれているけど、なんだか反論したくなるわ」と笑って答えた。

なんだろう、この違和感は。「この人の子供を産みたい」と思った人と結婚したら、幸せになれるのだろうか。男性側からすれば、「この人に俺の子供を産んでほしい」と思った相手と結婚するということ。私は知っている。「この人の子供を産みたい」と思える相手に出会っても、その愛は私にとっては十分な強さではないと。

私が、「この人の子供を産みたい、私たち二人の遺伝子を残したい」と思った相手は、これまでの過去に一人だけいた。その彼とは、真剣な、将来を見据えた関係性だったけれど、結局、さよならが訪れた。
「この人の子供を産みたい」と本気で思った時でさえ、相手との感情のすれ違いから、相手に対する気持ちは冷めると知った。遺伝子を残すという想いだけでは、その人を愛する原動力にはならない。それが私なのだと気づいた。

◎          ◎

男と女である前に、人間として向き合いたい。「ある男性の遺伝子がほしい」「ある男性との子供をつくって家族を築きたい」という想いよりも、「人間として一緒にいたい」という想いの方が愛の原動力になるのだと思う。
子供はあくまで副産物であって、絶対ではない。そもそも女性は子供を産むための機械ではない。

私はどんな人にそばにいてほしいのだろう。清潔感があること。私より少しは身長が高いこと。一重ではなく、せめて奥二重であること。
ベッドの上で肩を抱いて、優しく髪の毛を撫でてくれるような人。「やりたいことだけすればいいんだよ」と言ってくれるような人。
色々と考えてみると、結局は人間として一緒にいたいと思えるような相手が求めていることに気づいた。そう、青い空と海をぼーっと見つめて、ただ無言でも一緒に時を過ごせるような人を。