「ごめんより、ありがとうの方がいいよ」
最後に一言、彼が言った。
彼に振られるまで、私は周りの目ばかり気にしていた。誰かに疎まれることや、嫌われることに異常に怯えていた。誰かと誰かが仲違いをした、どこそこのカップルが別れたという噂を小耳にはさむ度、離れられるほど距離の近い人などいないのに、次は自分の番なのではないかと、気が気で仕方なかった。

彼を好きになったのは中学3年の時だ。社交的な彼は、私が悩んでいた数学の問題をいとも簡単に教えてくれた。たったそれだけのことで、まるで当たり前のように、恋を知らないはずの私の胸はとくんと鳴った。
高校生になり、私達は付き合い始めた。しかし上手くはいかなかった。お互い気恥ずかしくて話せなくなった。彼から避けられている気がした。肝心な時に、私は、どうこの初恋に向き合えばいいのかまるで分からなかった。
結局、付き合ったのは2ヶ月だけだった。最後の時ですら、まともに話も出来なかった。私を嫌いになったのかさえ言わなかった彼が残した言葉が、冒頭の一言だった。

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その言葉は私の中で幾度となく反芻された。初めて胸がつかえてご飯が喉を通らなかった。
まるで、彼の言葉が胸だけでなく、頭も、胃も、私の何もかもを占領しているかのように、私という自我は空っぽになった。私の気持ちは変わらないのに、青いまま枯らされてしまったようだった。
枯れた私は投げやりになった。一番守りたかったつながりが途絶えた。だから、もう何も怖くない。やけくそに、初恋らしい不器用さで、そう思った。誰に嫌われることも厭わないから、おどおどする必要はなくなった。多少傲慢にすらなったかもしれない。
「ごめん」が口癖ではなくなった。隣の席の子が消しゴムを拾ってくれた時、誰かが扉を開けて私を待ってくれた時、「ごめん」ではなく、「ありがとう」が口をつくようになったのはいつからだろうか。

ある日、クラスメイトが私に言った。最近丸くなったよね、と。その言葉は私にとって想定外だった。荒れたり、反抗的な態度を取ったりした覚えなど全くなかった。それを伝えると、彼女は慌てて否定して言った。
「話しやすくなったなって。前より心を開いてくれてる気がして」
虚をつかれた思いがした。苦しいばかりの初恋に、枯れた後で救われていたのだろうか。いや、枯れてなどいなかったのかもしれない。ドライフラワーのように、静かに、密やかに、私はきっと咲いたままだった。

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卒業式前日、私は彼を呼び出した。
「話を蒸し返したくて呼んだの。嫌だったらそのままUターンしてもらってもいいけど、どうする?」
わざとおどけて言った。
「いいよ、俺も話したかった」
少しホッとした。向かい合って座った。声が震えるのをなんとか抑えながら、ゆっくり話した。
彼が大好きだったこと。本当は、一方的に別れようではなくて、理由とか、これからの距離感とか、いろいろ話してから別れたかったこと。ずっと未練があって苦しかったこと。一通り話し終えて、間が空いた。取り繕うように、はにかんで息を継ぐ。
「1番言いたかったのはね、ありがとうなんだよ」
そう言うと、彼は、初めて表情を崩した。驚いたような悲しいような複雑な顔をした。

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「俺はずっと申し訳ないと思ってた。距離を置くんじゃなくて、もっとちゃんと話し合うべきだった。謝りたかった」
以前と立場が逆だった。そこに時の流れを感じて、泣きたい気持ちでなんだか笑えてきた。その時、私の方がよっぽど複雑な顔をしたのだろう。私は幸せだった。出会わなければよかったと思うほど好きになれる人に出会えて、幸せだった。

「ごめんじゃなくて、ありがとうでしょ。あなたが教えてくれたことでしょ」
そうだったねと、彼が笑った。憑き物が落ちたような、単純な笑顔だった。やっと、一番伝えるべき人に、伝えるべき言葉を言えた。
翌日、私は卒業した。初恋と、彼との思い出がつまった学校とを。