正直、あの子の名前はパッと出てこない。
当時の私は地方都市の高校2年生。中学と違ってバスを使わないと通えない距離にある高校に入学して1年が経ち、大学受験までまだ心の余裕がある、いわゆる「中だるみ2年生」を過ごしていた。
教師たちは「たるむんじゃないぞ」とことあるごとに言ってきたが、たるまないわけがない。新しい環境に慣れてしまった17歳には退屈な毎日であった。
楽しみといえば、毎日大量に課される宿題を友達と切磋琢磨しながらこなすために(つまりは回答の見せあいっこである)少し離れた市街地にあるスタバに行き、その実、新作のフラペチーノを飲むことだった。
退屈な高校生活の中で、彼の姿を確認しては喜んでいた
なぜ私は彼に惹かれたのだろうか。きっかけは何だったのか。覚えていない。
大人になった現在に至るまでに、友人に私の高校のアルバムを見せる機会があり、その際に彼の写真をチェックしたが、いまいちピンとこない。
多分落ちた消しゴムを拾う姿だったり、制服の学ランの第一ボタンを外す瞬間だったのだろう、彼が私の「推し」になったのは。
高校時代の親友Yは2年生当時、隣のクラスだった。同じ部活に所属したことがきっかけで、高校時代から現在に至るまで私の友達をしてくれている。
私とYは文系クラスで校舎の同じ棟であったが、憧れの彼は理系クラスだったため別の棟のクラスだった。昼休みになると、Yを誘って売店に行くのだが、途中、彼のクラスの前を通って彼の姿があるか確認してはキャッキャッとしていた。
Yから「手、振ってみな」と促され勇気を出して手を振る。彼もまんざらでもない様子で手を振り返す。これだけで私たちは大興奮だ。よかったやん、とYから言われた私は、嬉しくなって売店で買う予定のなかったチョココロネを買うのだった。
数学を教えてもらおうと、友人とともに彼に接近
時には大胆だった。
私の通っていた高校は毎日数学の宿題があり、理系科目の苦手な私は頭を抱えていた。放課後、数学の得意なクラスメイトに教えを乞うこともしばしばあった。そんな時にYから「彼のクラスに行ってみればいいやん」と提案があった。
まあ、たしかに彼は理系だけど、ただそれだけだ。私は教室の外から眺めては、手を振らせていただいているだけだ。
いや、そ、そんな数学を教えてもらうのは、なんか、違うというか……とYの提案を実行しようとしない私をYは文字通り引きずっていこうとした。校舎の廊下は恐らく私が見てきた廊下史上最も滑りやすそうなツルツルとした素材で、くわえて私たちの上履きもこれまた廊下を滑るためにあるかのような、滑りやすいものだった。
しゃがむ姿勢で拒否する私と、私の両手首をつかんで引っ張るY。廊下と上履きのおかげで廊下を滑るのが楽しくなった私たちは、当初の目的である彼のクラスに行くことを放棄し、キャッキャッとこの種目を楽しんでいた。
そんなところに彼が、Yのクラスにいる同じ部活の人間に用事があるということでやってきたのだった。
突然訪れたチャンス、ものにせねばと思い、最大限可愛く数学を教えてほしいとお願いをした。すんなり「いいよ」。
ああ、今まで教室の外から眺めていた彼が私の目の前にいるんや……更には私に話しかけてくれている……と思うと、全然話に集中が出来ず、結局いまいち数学の問題は分からなかった。
受験勉強で遠くなった彼。きっと私は恋に恋していた
以降これ以上の彼との接触はなかった。時間は経ち、あっという間に受験勉強が本格化していったのと、私からの好意に恐らく気づいていただろう彼からのアクションも特になかったため、私の彼への興味も次第に失われていった。
Yも特に彼について話題にすることもなくなり、あっという間に高校卒業。私は地元を離れたが、帰省してYと会うと、時々「そういえばさ……」と私の恋物語(というほどのものではないが)を話すことがある。高校卒業後、彼が何をしているのか全く知らない。
そうだ彼の名前はT君だ。その名前で呼んだことすらない。
私はただの、恋に恋する17歳だった。