メメントモリという言葉がある。
ラテン語の言葉で、意味は「死を忘ることなかれ」だ。
なんだか重々しい言葉に聞こえるが、日々を大切に生きていく上で忘れてはいけない、私にとっては大切にしている自分自身への警告だ。
22歳の冬、18年一緒に過ごした愛犬が死んだ。
私が4歳の時に我が家にやって来てから、末っ子として全身全霊で可愛がって来た、家族の一員だった。
親に怒られて泣いている時に慰めてくれたり、お姉ちゃんと部屋で遊んでいる時にこっそり2階に上がって来て一緒に参加したり、誰にも言えない相談事も彼女にだけは話したり。
私にとって唯一無二の、世界で一番大切な妹だった。私にとっては妹だったけれど、彼女はゆっくり老いていった。
◎ ◎
だんだん白い毛が増えて、抜け替わりも遅くなって、体も丸くなってきて、散歩も行かなくなった。
しまいには、徘徊したり、そこらじゅうで排泄するようになって、家中ペット用のトイレシーツが敷いてあった。
粗相をしてしまった時には「ごめんね」という顔をしてこちらを見ているので、「大丈夫だよ」と抱きしめたことをよく覚えている。
犬と人間の寿命が違うことは分かっている。
でも、お姉ちゃんである私がまだこんな若いのに、妹が老いていくのは奇妙な感覚だった。
また、彼女がこの家からいなくなったら、家族はどうなってしまうんだろうと、不安も感じていた。
その頃多感だった姉と私は両親とぶつかることも多く、姉が一人暮らしをする話も出ていた中で、家族がばらばらにならないよう繋ぎ止めてくれていたのは彼女だった。
そんな中、彼女の容態は私の外泊中に急変した。実家から電話があった時、私は現実に直面する勇気が無くてなかなか帰れなかった。
◎ ◎
彼女が待ってる、彼女が待ってる、と思いながら意味もなく、お腹も空いていないのに定食を食べた。私が帰らなければ死なないんじゃないかとすら思った。
でも、実際帰宅してその姿を見たら、自分の愚かさを思い知った。
苦しくて、もう耐えられないという表情を浮かべながら、それでも彼女はまだ生きていた。
かろうじてなんとか生きていた。
私は泣きながら駆け寄った。
頭の中で自分を何度も責めながら。
私が帰ってくるまで待っていてくれた妹に。
私と目が合って、私を見て、一緒に帰って来た姉のことも見て、母のことも見て、一瞬上の方を見て、妹は目を閉じ、徐々に冷たくなっていった。
とうとう彼女はいなくなってしまった。死んでしまった。
長年恐れていたことが、とうとう起きてしまったのである。
◎ ◎
彼女がいなくなってから、驚くべきことに日常は相変わらず穏やかに流れた。
お姉ちゃんは一人暮らしを始め、私は就職した。
離れ離れに暮らしていても、家族は家族のままだった。
そのうちお姉ちゃんが結婚し、子供が生まれ、我が家に家族が増えた。
それでもどこかぽっかり穴があいたままの心と、彼女のお骨はお墓に入れられていないまま、時が止まってしまっている部分もある。
私は彼女の命日に必ずメメントモリの精神を思い出す。当たり前のように一緒にいた人が、ある日突然いなくなってしまうこと。
私の人生も、明日突然終わってしまうかもしれない。
彼女を思うことが、いつも納得して生きているか?やりたいことをやっているか?と自分に問うきっかけになる。
彼女の命日は、私にとって、メメントモリ記念日なのだ。
私にとって大切な存在だったからこそ、今でも大切だからこそ、私にとっての記念日になったのだ、と思う。