私が幼稚園の頃、時々祖父と二人で留守番をすることがあった。そんなとき、決まって祖父はお昼にオムライスを作ってくれたものだった。

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祖父は気ままでマイペースな人だった。
オムライスひとつ作るのに、2時間以上かかるのは当たり前。だからと言ってお昼時に出来上がるよう、早めに準備に取り掛かることをする人でもなかった。だから、留守番の時は毎回空っぽのお腹で、祖父がのんびり玉ねぎを切るのを眺めていた。
ザクザクザク。ゆっくり、でも大胆に切っていく。その時、いつも私は顔をしかめている。
何も玉ねぎが目に染みたわけではない。多くの子どもがそうであるように、私は玉ねぎが苦手だったのだ。
何度か、祖父にもう少し小さく切ってとお願いしたことはある。でも、その切実な願いはことごとく無視された。祖父は大きい方が美味しいからと言っていたが、途中で本当の理由に気がついた。それ以上小さく切れないのだ。
無理に小さくしてもらってさらに時間がかかるのは避けたかったから、折れるのはいつも私だ。

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やっとできたオムライスからは、ケチャップの焼けた香ばしい匂いがする。卵はよく焼けた黄金色だ。一つの大きなオムライスを端から二人でつつき合う。
私はケチャップと卵のおいしさ、そして何よりやっとご飯にありつけることに満足して、にっこり笑顔を浮かべかける。純粋な笑顔を許さないのは玉ねぎのせいだ。ジャキリジャキリと、玉ねぎが主張する。
祖父は大仕事を成し遂げたというように、どこか誇らしげな顔でオムライスを頬張る。玉ねぎ好きは案外本当かもしれない。そこに、出かけていた祖母がおやつを携えて帰る。
「今、お昼なん?」
呆れたように言う。もっと早く作ればいいのにと祖父をたしなめ、祖父がいいじゃないかと、ちっとも悪びれずに返す。
私はそのやりとりを二人の間で聞きながら、またオムライスを一口。祖母の買ってきたおやつは、晩ご飯後のデザートになる。それがいつものお決まりだ。なんだかんだ言って、私はその時間が好きだった。

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でも、そのお決まりも幼稚園を卒業してからはなくなった。小学生になって、私も料理をするようになったのだ。
初めは、お昼時にお昼が食べられるようにという理由からだったが、いつしか料理が好きになっていた。祖父と留守番をして、オムライス作ろうかと言われても断るようになった。
時間がかかるし、自分で作った方が玉ねぎを小さく切れる。何より、料理の楽しさで、あの時間が好きだったことすら、忘れてしまった。

今となっては、自分で作れるようになっても、時々はオムライスを作ってもらえばよかったと思う。玉ねぎの大きさや、ケチャップの焦げ。ふわふわでも、とろとろでもない、こんがりしっかりとした卵。それら全てが祖父らしさを表しているようだった。
それを食べると、祖父の愛情をそのまま口にしているみたいで、身体の奥からじんわりと温かくなるような気がしていた。もう一度、あの温かさを噛みしめたい。

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祖父は3年前に亡くなった。もう、あの味は食べられない。けれど、たとえ同じオムライスが食べられたとしても、玉ねぎを美味しいと感じるようになってしまった今の私に、祖父の味をあの時と同じように感じることはできないと分かっている。自分で何度も試してみたのだから。
それでも、私はこれからオムライスを作る度、祖父を思い出すのだろう。私はこれから何回、玉ねぎのオムライスを作るだろう。