また食べたいけど、二度と食べられない味。それは「つくしのお浸し」だ。

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小さい頃、両親が共働きだった私と妹は、よくおじいちゃんに連れられて、近くの土手に散歩に行った。

三月末くらいになると決まってするのが、おじいちゃんとのつくしの収穫。おじいちゃんは、戦時中の経験値もあって、「これは美味い、これは不味い」と、選別もプロ並みの速さだった。そして、一緒に「食べられる野草」も探し、沢山のことを教えてくれた。
持って帰ったら、そこからはおばあちゃんの出番。袴を取り、サッと茹でる。袴をおしゃべりしながら一緒に取る時間は、本当に大好きだった。茹でながら、「○○ちゃん、さしすせそ、はお料理の基本だからね。女の子なんだから、覚えておきなさいね」と、教えてくれた。
出来たつくしのお浸しにすりごまをかけ、ラップをし、家まで持って歩いて帰る。その道中ふんわりと香ってくる香りが、私にとっての「春の香り」だった。

そんなことを毎年、毎年繰り返していた。私はそれを、「当たり前」だと思っていた。だからこそ、反抗期真っ只中は少々サボってしまっていたのも事実だ。断った時のおじいちゃんの顔は、寂しそうだったのを今でも覚えている。

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私が大学3年生で帰省した時、おじいちゃんと久しぶりにつくしを取りに行った。
おじいちゃんは、「これは○○ちゃんと摘む最後のつくしやな」と、どことなく寂しそうに、おじいちゃんは笑っていた。「そんなことないよ、来年の春はまた帰ってきとるし。一緒に行こうや」と私は返した。それなのに。
数ヶ月後、おじいちゃんは、亡くなった。

息を引き取る間際に、おばあちゃんは、「こんなとこで死んでどうするん。○○ちゃんとまたつくし取りに行くんやろ!」と声を掛けたらしい。おじいちゃんは、涙を流しながら旅立った。

次の年の春、私は姉と姪っ子と一緒につくしを取りに同じ場所に行った。あの頃と変わらない様子で、つくしは元気に頑張っていた。
おばあちゃんにお浸しを作ってもらい、仏壇にお供えをし、私もひとくち食べた。その途端に涙が止まらなくなった。同じおばあちゃんのお浸しのはずなのに、どこか違う。おじいちゃんとの思い出が、走馬灯の様に思い出され、塩っぱい味がした。隣で、おばあちゃんも静かに泣いていた。

そんなおばあちゃんも、95歳で身体の自由がきかなくなり、台所に立つことが殆どなくなった。もうあの味は、食べたくても食べられない。

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今になって思う。
あの時「当たり前」だと思っていたことは、実はすごく奇跡だったんだと。
おばあちゃんのレシピ集を受け継ぎ、つくしのお浸しを作ってみたけれど、あの味にはほど遠い。何故だろう、きちんと「さしすせそ」を守っているはずなのに。

どうやら、まだまだ鍛錬が足りないらしい。
「おばあちゃんの味を作ろうなんて、100年早いわ!」というおじいちゃんの声がどこからか聞こえてきそうだ。
絶対作る。そして、今度は私が、おばあちゃんとおじいちゃんに食べてもらう番だ。