「俺、もう今度こそ転職しようと思う」
これまで何十回と聞いたセリフを彼が口にしたので、思わず苦笑してしまった。
友人の紹介で彼と知り合ったとき、友人が彼を形容する言葉は、「いいやつ」「優しい」「受け身」だった。
彼と初めて知り合ったとき、既に「転職も視野に入れている」と彼は話していた。その頃は私も勤務先でずっと働き続けることに自信がなく、その発言に私はあまり輪郭のある感情をいだかなかった。

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その日、「次また会いましょう」と連絡したのは私からだったが、そこからなかなか返事が来なかった。もうだめかと思いきや、半日待って意外にも快諾してくれたので、そのまま順調にことが進み、付き合うことになった。
結果的には、彼と出会って別れる1年の間、彼は転職活動などせずに一社も受けることはなく、それでありながら勤務先での転勤をあれこれ理由をつけて断り続けていたようだった。

「ちとせちゃんってさ、1ヶ月のお給料はいくらくらいなの?」
付き合って半年ほどした頃、焼き鳥を食べながら彼が訊いてきたのはそんなことだった。
「え?どうだろうね。あんまりちゃんと見ないからなぁ。残業したら結構もらえるけど、基本給はそこまででもないよ」
そう答えながらも、個人の経済事情に土足で踏み込まれてくることに苛立ちを感じた。結婚の話などまだ出ていないのに、なぜそんなことを詮索されなければならないのだろうか。少なくとも、人に訊くくらいなら自分から先に言うべきなのではないだろうか。

「えー、じゃあさ、貯金とかはいくらくらい貯めてる?」
カチンときて、思わず黙り込んでしまった。私のお金をあてにしたいのだろうか。そうでなくとも、あまり常識的な発言ではないはずだ。
それでも彼は私の怒りには全く気づいていないようだった。
「ちとせちゃんの勤務先、かなりもらえるんでしょ?さすがに400万円くらいは貯めてるよね?」
「えー、言わない言わない。っていうかそんなこと訊く?」
そう言って笑い飛ばしてからも、違和感はおさまらなかった。

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その一件に疑問を覚えた私は、あまりよいことではないが、ある日彼を試すことにした。
「やっぱり私もさ、転職とかしようと思ってるんだよね。今のところだと残業も多くて、若いから今はいいけど、これからの将来のことを考えるとかなりしんどくて」
言った瞬間、彼の顔がすぐに曇ったのが分かった。
「転職ってどこに?いったいなんの仕事をするわけ?」
少し馬鹿にしたような笑い混じりのものの言い方に、確信を覚えた。
彼の転職に、私はそんな言い方をしたことは一度もない。「自分の思い通りにすればいいよ」と言っていたはずだ。
「転職とかはしないでよ。ちとせちゃん、すごくいい年収もらってるんでしょ?」
思わず閉口してしまった。
「俺は、ちとせちゃんには、今のところでずっと働き続けて欲しいかな。30代でもお金かなりもらえるんでしょ?」
彼が私と結婚したいのは、私が人並みよりお金を稼いでいるからだろうか。
「でさ、年取って俺の親に介護が必要になったら、ちとせちゃんには仕事やめてもらって、そこからは俺の親の介護に集中してほしいかな」
絶句した。この発言は絶対におかしい、と思った。驚きのあまり言葉が出てこず、その場を凌ぐために誤魔化して笑うしかなかったが、帰りの電車で延々とそのことを考えては嫌な気分になるばかりだった。

数ヶ月悩んだ末に、メッセージを送ることにした。
「お給料の話も介護のことも、私にかなりの労働力を期待しているみたいで、将来に不安しかなくなった。私が意思のある人間だと思ってる?もう別れよう」
そんな内容を送った。送りながらも、私自身も意思が希薄なことにはうすうす気づいてもいた。
自分が将来のことをすすんで考えなくても、結婚相手にどうにかしてもらえるという気持ちがどこかであったのも事実だった。他力本願なのは、自分も同じだったということだ。