昨年のほぼ1年間、私は前職の企業を病気により休職、そして退職をしてフリーターとなった。躁うつ病と診断を受け、服用していた薬が企業の労務規程にそぐわなかったからだった。

そんな私は、薬の規程があったとしてもひとつの望みをかけてこの休職期間にリワーク、正式には就労移行支援事業所というところに昨年4月から12月まで通っていた。元はと言えば会社での産業医面談でリワークに通うように指示を受け、紹介された東京は大塚の就労移行支援事業所に足を運んだのがきかっけである。

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体験通所をする前に、一度見学に事業所へ行ったのだが、そこで私はどんよりとした空気に面食らってしまった。そして、その利用者さんの雰囲気にショックを受けてしまい、体験通所をすると決めたものの、思わず障がい者支援関係の仕事をしている同業種勤めの母親に愚痴をこぼしてしまうほどだった。

その後、手続きの関係もあって1ヶ月の実習通所を経て正式通所となったのだが、企業にいたときとはまた別の壁があった。

割と実習初期の時点から話が合わない、自己中心的だなと感じる先輩的利用者が2人ほどいて、個人的に攻撃を受けたことから何度か私は過呼吸となってしまい、プログラム参加の中断を余儀なくされた。
企業にいたときも過呼吸になってしまったことはあるが、自分の不甲斐なさから来ていたものだったので、想定外の出来事に適応できなくなってしまったのだろう。その2人が事業所にいるときは不安感でいっぱいだったことは今でも憶えている。

でもそんな私でも、前職時代、いやそれ以前からの良さだと自負している「コミュニケーション力」を武器に、共に通所している利用者に自分から積極的に声をかけては、グループワークのときなどに意見を吸い上げる役割を担ってみたり、休み時間には仲間たちと談笑する火付け役になってみたりと、コミュニケーションを積極的に利用者仲間ととっていたことによって、場の雰囲気を良い方向に引っ張っていくことができたのは、自分の中でも成功体験の1つだと思う。この成功体験があったから、ある新しい目標ができた。

それは、自ら話題を提供しつつ、話についていけていない人を減らしたい・中に解け込めていない人たちを一緒に輪の中に入れて共に話をするサポート役になることだ。

昨年の同じ頃、現状把握のための産業医面談でも同様のことを話したところ、「ピアサポーター的な存在になりたいんだね」と産業医の先生に言われたということもあるが、利用者仲間が休み時間に楽しく談笑している姿を見ていたら、その場作りのきっかけを自分が創ったんだと自信を持って話せるエピソードができたから、このエピソードと同じように話したいけど話せないな……と感じている人が1人でもいたら、まずは切込隊長というか、ピアサポーター的な自分がその人とアイスブレイクして、どんどん既存メンバーと仲良くなっていけるように関わりの場を広げていけたらいいな、とぼんやりながら思う。

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その反面、通所をしながら、「社会人ってこんなに大変だったっけ?」と社会人生活から離れたからこそ、感じたことがあった。

というのも、大塚の事業所までドアtoドアでも片道1時間半、往復で3時間、電車で揺られて通っていたのだが、朝決まった時間に起きて決まった時間に車で駅へ向かい、決まった時間の電車に乗っていくということを社会人1年目のときぶりに経験して、昔のオフィス勤めだったときを思い出していたと同時に、基本的に前職の通勤は車通勤だったから、電車通勤そのものに馴染みがなく、決まった時間に電車に乗って長時間、乗り換えの駅まで揺られるということ自体、私にとっては過酷なことだったということを思い知らされた。

事実、電車に乗ることだけでも一苦労という中で、車中で寝落ちしてしまって寝過ごしてしまったことが通所の行き帰りに何度もあり、自分の身体に大きな負荷がかかっていたのだと改めて実感した。
これを毎日、平気な顔してこなしている社会人が心底羨ましく、且つ尊敬するなと思った。

今、私は昨年の長い休みを経て、短時間ながらも書店でアルバイトをしている。結局車通勤に戻ったが、往復3時間かけて地元から大塚の就労移行支援事業所に通ったことも、その事業所で学び、感じ取ったことも、結果的に退職となったものの、1年間ほど休職したことも、ある意味、「人生の夏休み」だったのかもしれない。

この長きに渡る1年は、紆余曲折あれど大切な物事を教えてくれた1年だったと思う。1年耐えて、今の職場にいられていることに乾杯!