“大人になることは、尺度の多様性を持つことであって、視点を持つことでもあるのだと最近は考える。
物事や世界がどんな見え方をするかは視点次第、それを捉える尺度をどれだけ持っているかで、全く異なるものになるのだと。”

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これは、私が17歳だった頃に書きかけていた文章だ。当時の私は高校2年生だった。現在はというと、20歳を目前に控えた成人である。
大人になるって、どういうことだろう?私は今まで年齢に対してこだわりを抱いたことがなく、時に自分を形容するその数字のことを、ただの記号だと思いながら生きてきた人間だ。
それでも何故か、「20歳」の節目に対するプレッシャーや期待は感じている。「大人になんてなりたくない!」と嘆いた時期もあったけれど、今の私はちょっとだけワクワクしている。

社会が定義する「成人」にはなれたし、選挙の投票にも足を運んだ。だけれど、私の中で20歳という区切りは、もっとハッキリとした存在感を持って君臨するボーダーラインなのだ。そして、その節目をもうすぐ迎えるにあたって、大人になるとはどういうことなのか、再び自分なりに考えてみたくなった。

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「大人」の定義はきっと人それぞれ異なるし、私が「大人」だと思っている人が、「自分は大人だ」という自覚を持っているかどうかはわからない。実際に、年上の方から「◯歳ってもっと大人だと思ってた。自分はまだまだ」という言葉を耳にすることは多い。そして私も現在、「もう20歳になるというのに、自分は未熟だな」と感じることが多いのだ。

17歳の私は、「視野を広げ、物事を自分なりに解釈できる尺度を多く持つ」ことこそが大人になるということだと感じていた。確かにその通りだなと思うし、知らない世界や価値観、人と出会うことによって少しずつ視野を広げ、私は成長してきた。
まだまだ「大人」としての自覚は未熟だけれど、17歳の私より、今の私の方が大人だという事実は明白だ。これから先もたくさんのことを知りながら、一歩ずつ着実に成長してゆきたいと思っている。

そして今の私には、過去と未来の自分に対して問いかけたいことがある。「あなたは、多様性という言葉について、どんな解釈を持っていますか?」と。
というのも、現在19歳の私は「多様性」という言葉の広まり方に対して疑問を抱いているからだ。社会的な少数派、いわゆるマイノリティ的な立場に寄り添って共生を目指そうとする社会全体のムーブを感じつつ、「多様性」という言葉が一人歩きしているようにも感じる。一般化された多様性からは逸れた場所にいる人々が確かに存在しているということに、目を瞑りたくはない。自分の立場から見える世界だけが全てではないということを意識できる大人になりたい。

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現状の私はこうして、多様性という言葉に括られることで見えづらくなってしまう現実もあるのではないかというジレンマを抱えている。
とはいえ、今の私にできることは考えることをやめないことだけであって、直接的に社会へ働きかける力は持っていない。まずは自身の健康を目指すことが先決だ。その先で私にできることを探したいと思っている。

あと数十日で20歳という節目を迎え、大人になってゆく私は、「多様性」という言葉に対する自分なりの解釈も深めてゆくことができるだろうか。
17歳の私に対して疑問を投げかけられる今の私は、あの頃よりは大人になった。だから、明日の私もしくは十数年後の自分には、もっと広くて深い、知識に基づいた視点から世界を眼差していてほしいと願う。この探究心を忘れずに歩んでゆく道の先、自分という存在に対して納得することができて初めて、私は大人になれるのかもしれない。

最後に、私の理想の大人像を記しておきたい。それは、愛と敬意を持ち、いつでも知ろうとする人。私はそんな大人になるぞという決意を胸に、20歳になる当日を迎えよう。