5月半ばのある夜。私はご機嫌だった。
仕事は何事もなく終わった。おいしいごはんを食べて、のんびりお風呂に入れた。
お風呂上がりにカモミールティーも飲めた。ストレッチまでして、何て理想的なまったりタイムだろう。
「そうだ、手もきれいにしよう」
思い立って、パチパチ爪を切り、ハンドクリームを塗った。きれいになった。
「よし、完璧」
寝ようと思った、その時だった。母が、隣でゴソゴソ何かをしている。

「あら、似合ってるじゃない」
視線の先に目をやると、私の両手10本の爪に、バッチリと、ラベンダーのお花が咲いていた。
「本当は私が使いたかったけれど、サイズが小さいから合わなくて。あなたに合うかと思ったの」
かわいいでしょ、とほほえんでいる母は、ご満悦の様子だ。

確かに、かわいいのだけれど、急な展開だ。
「私、これで寝るの?」
つい、本音が漏れた。
「いいじゃない」
まさかの返事に、驚いた。
人生初のネイルシール。
悪くない。たまたま明日はお休みだし、このまま寝よう。

◎          ◎

次の朝。起きると、さっそく剥がれかけていた。いっそのこと思い切り、ベリベリ剥がしたかったが、何だかもったいない。せっかくなので1日そのまま過ごすことにした。
ごはんを食べる、本を読む、テレビを観る。何をしていても、ふと見ると、視界に入ってくるお花たち。最初は、服に着られているような、そこだけ浮いている感覚だった。普段しないことをしてみるって、こんな感じなのか。

しかも、仕事柄のせいか手はガサガサで、爪は短い。どう頑張っても、飾って見映えするような状態ではない。
しかし、眺めていると、そんな手もだんだんいとおしくなってきた。

そういえば子どもの頃、母がオレンジ色のマニキュアを塗っているのを見て、やってみたくなった。夏休みに、せがんで塗ってもらった。ツヤツヤした指先は、それだけで大人の仲間入りをしたようで嬉しくて、数日間眺めていたっけ。

ちなみに、ピアノのお稽古にもそのまま行った。先生は、
「きれいね」
とほめてくれた(今考えるととんでもない迷惑かもしれないが、特に叱られなかった。私の気持ちを汲んでくださった先生には感謝している)。

その時感じたような、背伸びした、ワクワクした気持ち。
そうだ、本当は私、おしゃれが大好きだった。
日々仕事をして、目の前のことに集中する。それも大切なことだ。ずぼらで、面倒なことは大嫌い、しかも不器用な私なので、忙しいと、手間のかかるおしゃれは後回しになりがちだ。

しかし、人生一度きり。せっかくなら、やれることは全部、楽しみたい。味わい尽くしたい。そして、いつも新鮮な気持ちでいたい。そんな思いに気づいた。

◎          ◎

ひょんなことから出会ったネイルシールが、私の中で眠っていた好奇心や乙女心を呼び覚ましてくれた。大切な、私だけの記念日になった。

その後、例のお花たちはと言うと、1日終わって、お風呂に入った時に剥がれてしまった。考えてみたら当然だ。残念だがさよならした。しかし、間違いなく私のおしゃれの新しい扉を開いてくれた。

また、かわいい仲間たちに出会えますように。
そう思いながら、日々を過ごしている。気づくと、新しいアイテムを探してあちこち覗いている。マスキングテープに、ジェルネイル、最近は、貼るだけで完成するタイプの便利なシールもあるようだ。これなら私でもキマるかも。ニヤニヤしちゃう。
もっと自信を持っておしゃれしたい。自分の心を満たすために、できるだけきれいでいたい。
爪を切り、形を整える。ハンドクリームを塗って、手をマッサージする。
かわいくて、ご機嫌な私を想像すると、何だか気合いが入る。いつものお手入れも、一段と楽しくできそうだ。