私のスケジュール帳には、365日のうち特別な日として、大好きなすみれ色のマーカーでひとつ丸がついている。これが一体なんの丸かって?
恋の思い出の日?推しの誕生日?大事な振り込みの期限?
正解はどれも違う。でも誕生日は少し惜しいかもしれない。

その丸で囲われた日付は9月11日。
それは私のもうひとつの誕生日といってもいい。2年前、顔にメスを入れた日。
そしてもうすぐもうひとつの丸が増えようとしている。

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私は来週10月24日に顔の治療をする。
このエッセイが掲載されるころには、「顔の治療をした」と過去形になっていることだろう。
……ああ、早くその世界線にいきたい。
タイムスリップして手術が終わった私になりたい。
そう願うほど、顔の治療を控えている今は何をしていても落ち着かないし、心ここにあらず、という感じだ。

例えばテレビを見ているとき、手術日と同日に放送される番組の予告を見てはどきりとするし、手術日以降に公開する映画の番宣をする俳優らの姿には「自分ははたしてこの映画が公開される時、この世界にいるのだろうか」「11月が私にくるのだろうか」とすら思う。

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別に命に関わる手術内容ではない、何千万も顔に費やしている人や顔の治療が当たり前の国では「そんな小さな手術で何びびっているの?」と呆れられてしまうかもしれない。

けれど、とにかく不安で仕方がない。
手術といっても私の場合「がんで患部をとらないと死んでしまう」といったような深刻さを含んではいない、「顔の治療」だなんて言葉を濁しているけれども要は「美容整形」である。

日付が進むという誰にも平等に降りかかる事象に怯え、おののいている……そんなに怖いならばやめればいい。やめても別に死にはしないのに……私はきっと怯えながらも手術台にあがるだろう。それは自分の心を変えたいから。

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醜形恐怖症。
このおどろおどろしい漢字の羅列が私の病名である。
子供の頃から自分の容姿というものが嫌いだった。でも容姿を褒めてくれる奇特な人もいた。けれども私にその賞賛の言葉は全く響かぬ程、自分の容姿が大嫌いであった。

酷い言い方かもしれないが、学級という同じ年に生まれたというだけでぎゅっと人を詰め込んだ正方形の中には、私より太っている子もいたし、私より大きなあぐらをかく鼻の子もいたし、なんならしゃくれている子や出っ歯の子もいた。

けれども皆、容姿について悩んでいる様子はなかった。彼女達は愛されて自分を肯定されて育ってきたから私よりも少し強いのだろうと思った。褒められるよりも否定されることが多く、愛情というものに飢え乾いている私は、いつだって自分の容姿を憎んでいたし、容姿を理由に自分の方向性を塞いだ。

スカートはかわいい子だけのもの、本当はサンリオのキャラクターが好きだけれど私みたいなのが好きなんて変だよね、スタバは私みたいなルックスの子は入れない、店員さんにブスの癖にと笑われちゃうかも……。そんな酷い卑屈具合だった。

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「私なんか」「私みたいなのが」というのは凄く簡単だった。ハードルを低くすれば低くするほど、なにかに許されるような気がしたから。
けれども、どんどん心が辛くなってきた。本当は自分を否定したくないのに、私の口は自分を否定することしか言わないから。でも私には、自分を肯定する言葉をかけてあげる自分がいないのだ。

世の中、容姿が100点な人ばかりではないとわかっている。容姿が100点の人が必ず幸せになれるわけでもないともわかっている。でも意を決してスカートを履いても、キャラクターグッズに触れても、スタバに入ってもすぐ卑屈な私が笑う。
こんな自分、嫌だった。毎日毎日自分の容姿を見ては自分を否定していた。自分がなにより肯定されたいのは分かっているくせに。

悩んだ末に辿り着いたのが、美容整形という手段だった。
そこまでしなくてもいい……という人もいるかもしれない。ゴシップ誌はよく「整形」という単語を嘲笑のタネにするけれど、整形は痛みやリスクを伴う危険と隣り合わせのものだ。
でも、心を変えようとしても変えられない自分には、それに頼るしかもう自分で自分を肯定できる術がないように思えた。

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今なおスケジュール帳に丸がついている、9月11日、手術の日の恐怖は未だに忘れられない。
揺れる日比谷線、駅から病院に向かうまでの道のり、病室で手術を待つ間、麻酔で眠りに落とされる寸前までずっと震えていたし、泣いていた。
本当に怖かった。
そしてそれと同時に、こんな恐怖を超えないと自分を愛せない自分が情けなくすら思えて、惨めさが眩暈を誘った。

6時間近い手術が終わって目覚めた後の景色……見慣れぬ天井、ベッドで揺られながら病室に戻る時の振動、じんじんとする鈍痛は未だに忘れていないし、一生忘れることはないと思う。

この日を境に、私はほんの少しだけ自分を愛せるようになった。
この日は私が自分を愛せるようになれた、ほんの少し自分が変われた記念日なのだ。

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……それで締めくくれればいいのに、私はもう一つ記念日を増やそうとしている。
痛みやリスクを伴わない記念日ならばいくら増やしてもいいけれど、私の場合は痛みやリスクを伴う上にお金もかけてまで記念日を増やそうとしている。
でもこれで、記念日を増やすのは最後だ。

顔の治療をして、1年は痛みを乗り越えたという自負もあって。少し自分を肯定できるようになった、でも術後2年が過ぎた今年、また自分を嫌いな自分が顔を出し始めて、また私の行動範囲を塞いで私を生きづらくさせた。

手術前、私は笑うとき「もしかしたら私の笑顔、気持ち悪いかも」と笑いそうになる2秒前位に笑いを堪える癖があった、術後その癖がようやく治ってきたと思ったのに、また笑顔の前にストッパーがかかるようになってしまった。

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このままではいけない。けれど顔の治療だけに頼りすぎてはいけないのも分かっている。もしも整形が痛みもリスクもお金もかからぬ魔法ならば顔を拠り所にしてもいいかもしれない、ゲームのアバターを決める時にポン、ポンと気軽に顔を変えてもいいかもしれない。

でも現実そうではない。整形は魔法ではない。気軽にやるものではないし、経験者でありこれからまたメスをいれようとしている人間が言っても説得力がないかもしれないけれど、やらなくていいのならばやらないに越したことはない。

でも私はやろうとしている、私は私を好きになりたいから。「1番可愛くなりたい」「最上の美が欲しい」ではなく、「自分を愛せるようになりたい」。
今、私には大切な人がいる。
最初の顔の治療を終えてから少しついた自信で、「私なんかが」と諦めていた自分も恋をしていいのだと歩み始めて見つけた、大切な感情と存在だ。

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心配性で起こってもいない不安を想像して不安になってしまうとびきり臆病な私と正反対で、私の心配や不安を「大丈夫―」と笑い飛ばしてくれる人。
だけど私はその人の前でもいつも笑うのを躊躇ってしまう、笑いたいのに不安になってしまう。

そんな局面にぶつかると、自分が自分を一番嫌いでいるのはとても苦しいと痛感する。世の中には自分を愛せる手段はたくさんあるかもしれない、でも私には顔の治療が一番強く響いてくれるからどうしても縋ってしまうけれど、これでもう最後だ、最後に出来る、自分を好きになった自分で、大事な人の隣にいたいから。

おととし顔の治療をしたことも、これから顔の治療をすることも大事な人には伝えた。
驚きつつも、「自分を好きになれるならば止めはしないけれど……でも心配だ」と私の不安や心配を笑い飛ばしてくれる人の眉を八の字にしてしまった。
でもこの人は困り顔になりつつ、手術に付き添うと言ってくれた。優しいのだ。この人の隣で笑い続ける為にもこれで終わりにする。

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きっとこのエッセイが読まれる頃、私のスケジュール帳にはもうひとつ丸が増えているだろう。もう増やすことないすみれ色の丸。
その丸をそっと優しく撫でてみる。
この日は自分が変われた日。
この日を思い出すことで自分は自分を愛す為に痛みを乗り越えたと思い出し、これから生きていく自信にだってなるだろう。