仕事がお金を得ることだとするならば、私はエッセイストなどと気取れるのだろう。こうして気まぐれにエッセイを書いて、おめでとうと図書カードやギフトカードをもらうことが時々あるから。
でも、世間一般にそれを仕事とは言わない。反対に、今私がやっている家庭教師や塾のバイトは立派な仕事になり得るはずだ。
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仕事ってなんだろう?大学生になってバイトを始めて、最近ではこの場にエッセイの投稿を始めた私は思う。
受け持っている受験生の女の子のために、いつか彼女が好きだと言っていたグミの小包装、一袋一袋にメッセージを書く。
「緊張したら深呼吸!」「ラストの1秒まで!」「forとsinceの違いは?」
これまでの授業や2人で話したことを思い出していると、懐かしいような、温かいような、不安なような、怖いような、なんとも言えない気分になる。その感じは悪くない。
だが、この話を友達にすると大体、「また時間外労働?頑張るね」と言われる。すごいね、優しいね、とも言われる。
違う。もし、それが他の人より一手間多いことならば、それは私が欲深いだけだ。歳が近い分、生徒に心を開いてもらえる「良い」先生でありたいのだ。
グミの前にも、同じようなことを言われたことがある。大学の休み時間だった。
私は女の子からメールで送られた宿題の丸つけをして、間違えていた問題の解説と類題を送る準備をしているところだった。私の出した宿題や学校で扱ったもので分からないことがあればいつでも連絡してねと伝えていたのだ。
私は分からないことはすぐ解決したい人だった。注文の多い、我儘な生徒だったのだ。私は、自分が生徒ならこうして欲しいと思うことをしているだけだ。
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それらは授業時間外、つまりお給料の発生しない時間だ。でも、私にとってその時間がお金になるかは重要なことではなかった。仕事として教えているのだから結果を出さないとという気持ちもあったけれど、お金以上の何かを私は求めているからかもしれない。それはきっと、人望とか、優しさとかいうものだ。
友達は続けて言う。
「まあ、時間外労働分を考慮しての、その時給なんだろうね」
私は仕事として何日も地道にグミにペンを走らせているのだろうか。これは義務なのだろうか。釈然としないものを感じつつ、送信ボタンを押した。
そう、仕事が何か自分で定義して良いのなら、私にとって仕事は義務だ。家庭教師の授業、塾での質問対応、高校の時の学園祭準備の指揮。それらをする時、私は自分のしていることを仕事と呼ぶ。義務がダメなわけではない。私にとってそれらの義務はどれも楽しかったし、責任ある行動のために必要な時もあるだろう。
けれど義務という言葉は、私が語るのもなんだけれど、どことなく無気力な感じがする。自分がやりたいわけではないけれど、やらなければならないのだと、そういう風に私には聞こえる。そして、それは優しさをかき消してしまう気がするのだ。
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そんな寂しいものにしたくないから、グミは仕事ではない。仕事でないならなんなのかは分からない。ただ、もっと温かいものであってほしいと思う。
自分で十分稼げなくても親に守られていると思うから、お金に執着しない考えができるのだろうか。大学を卒業して、一人で生活費も家賃も、スマホ代も、全てを賄わなければならなくなったら。もし結婚して、守りたいものができたなら。自立した私はもう、グミにメッセージを書くことなど思いつきもしないのだろうか。
今だって、認められたいという気持ちや、自分の欲張った理想の教師像を思いながら、生徒と向き合っている。純粋な温かさとは言えないかもしれない。それなのに、いつかは邪な温かさなんていう、生温さすら無くなって、無機物のような冷たさしか残らなくなってしまう時が来るのだろうか。
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仕事が何か答えはまだ分からない。けれど、ひとつ分かるのは、これから私は仕事と共に生きていくということだ。
それは小学生からの夢の薬剤師としてかもしれないし、主婦として家族を支えることかもしれない。今のアルバイトに触発されて教師になっているかもしれない。どんな形であれ私は何かの仕事に勤しむのだろう。
やりたいことの中にも、やらなければならないことはあるだろう。でも、自分が選んだ道の途中にでも、どんなに忙しくても、私は心を失くさない人でありたい。邪でもいいから、いつまでもグミにメッセージを書きたいと思う心を持てる人でありたい。寂しい義務に抗う、こんな私の仕事との距離感はゼロか、無限か、せめてどちらに近いか、自立した大人よ、誰か教えてくれないか。