インスタを卒業して、もう数年。
初対面の人にはよく「えっ、インスタないんだ。珍しい。消したなんてすごいね」と言われる。
投稿する写真がなくなったからではない。
むしろ、私は写真を撮ることが好きで、大学1年の冬に、アルバイトで貯めたお金で買ったミラーレス一眼を今でも使っている。
そんな私はふと思い立って、数年前に、インスタグラムのアカウントを消した。
消すのにかかった時間は一日もなかった。
「やめちゃおう」と思って、数時間後にはアカウント削除申請をしていた。

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インスタグラムの世界から消えた私に気づいたのは、たった2人の友人だった。
高校からの友人にもフォローされていたから、300人は超えるであろうフォロワー。
私という存在が消えてしまっても、世界はいつも通り動き続ける。
インスタグラムの世界でしかつながっていない友人はいなかったし、LINEやFacebookなど他の連絡手段はあったから、アカウントが消えても正直困ることではなかった。
タグ付けしようとしても、私のアカウントが出てこないことに気づいた仲の良い友人2人だけが、「あれっインスタ消したの?なんで?」と連絡をくれた。

きっかけは、あるドキュメンタリー映画を見たことだった。
Netflixオリジナルの映画「The Social Dilemma」(邦題:監視資本主義 デジタル社会がもたらす光と影)。
新型コロナウイルスの感染拡大が始まった当初は、様々なフェイクニュースが世界中を駆け回った。
フェイクニュースの拡散に役立ったのもSNSだ。
この映画のテーマは、SNSの中毒性。
SNSはユーザーである人間の心理に対して、皮肉にもとても上手にプログラミングされていて、人間はどんどん中毒になっていく。
そのコンテンツがたとえ嘘の情報を含むものであっても、ユーザーが好むというだけで、同じようなコンテンツだけが表示されていく。
私たちが使うSNSのアプリは、その情報が正しいのか、嘘なのかは気にしていないのだ。
ユーザーである私たちにウケるのか、ウケないのか、ただそれだけが重要視されている。
ポジティブな方向に言い変えれば、自分好みに自動的にカスタマイズされて、自分が見たいと思うような動画だけが表示されていくということだ。

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この映画を見終わった後、私は怖くなった。
はっと思い立って、スマホのデータ通信量を見ると、インスタグラムが飛び抜けて高かった。
写真を投稿する頻度も高くないはずなのに、電車の待ち時間やふとした瞬間に見るのはいつもインスタだった。
ただひたすらスクロールして、友達が投稿する楽しそうな写真を見て、自慢げなストーリー投稿を見て、特に羨む気持ちもなければ、何も感じなかったけれど。
それが習慣だった。
私の隣にはいない赤の他人の日常の一瞬を見るのが。
しかもその日常は、作り出されたものかもしれないのに。本当の姿ではないかもしれないのに。
一緒の空間にはいないのに、何か月も会っていないのに、「○○ちゃん、今日渋谷にいるはずだよ」と居場所がわかってしまう。
なぜなら、さっきインスタのストーリーで渋谷のカフェの写真を投稿していたから。
そんなの自然に逆らっている気がした。
だから私は、インスタグラムを卒業した。

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同時にFacebookの友人リストも整理をした。
本当に連絡をとるであろう100人ちょっとだけが友人になっている。
インスタグラムよりも前から使っていたFacebookの方が、使いやすい気がする。
旅行や好きな場所など投稿したいときはFacebookに投稿している。
映えるスポットに行ったときも、目の前で調理してくれるレストランに行ったときも、「動画とってもいいですよ」と店員さんは言ってくれるけれど、笑顔で「大丈夫です」と答えている。
若い女性なのに珍しいと思われているのかもしれない。

インスタグラムを卒業してから、運ばれてきた料理を食べる前に、美味しく見えるアングルで写真を撮る必要もなくなったし、ふとカフェに立ち寄った時に、少しだけかっこつけて、コーヒーとちょっとした小物がうつる写真をとってストーリー機能を使って、数時間だけアピールする必要もなくなった。
スマホのカメラのフィルター越しで見る絶景や美味しい料理よりも、今、目の前に広がる一瞬が楽しめるようになった。