高校1年生の3月7日。私は日本にいた。コロナさえ流行しなければ、空の上にいるはずだった。

中学3年生の時から留学がしたくて、返済不要の奨学金を支給してくれるプロジェクトに取り組んでいた。有難いことに採用され、私は約40万円の支援を受けて高校1年生の春休みにバンクーバーに飛び立つことになっていた。
プロジェクト応募の準備期間を含めて1年以上、私はこの留学の計画に取り組み、現地に赴ける日を楽しみにしていた。支援を受けるための書類記入や管理は大変だったけれど、海外にしかない文化や考え、景色、匂い、食べ物、画面越しにしか知り得なかった世界に直接触れることができると思えば苦ではなかった。

◎          ◎

ホームステイ先の家族ともメールのやり取りを始めて、とうとうパッキングに取り掛かり始めたのは待ちに待った留学の1週間前だった。そのときはまだ、中国で流行している未知のウイルスが、それほど恐ろしいもので、国境を越えるものだなんて思っていなかった。

朝、学校に行くと先生に呼び出された。いつもはにこにこしている先生が怖く見えた。
「安全が保証できないから留学は中止してほしい」
何を言われているかわからなかった。今の状況がどんどん悪くなったら帰国できなくなるかもしれない。現地で感染したら大変だ。向こうで何があっても自己責任ならいいけれど、学校の名前を出してプロジェクトに応募している以上、学校が知らぬ存ぜぬというわけにはいかない。
説明を受けるにつれ、段々状況が掴めてきた。つまり、私は1年以上かけて準備してきた留学を、1週間前になって自分の判断でやめなければならないのだ。画面の向こうの出来事は、いつの間にかこんなにも近いところに来ていた。

それでもまだ受け入れきれなくて、すぐ留学エージェントに電話をした。他の留学予定の人も次々にキャンセルをしている。コロナが世界規模で流行している以上、留学先の変更も意味がない。留学を延期しようにも、いつパンデミックがおわるか誰にも分からない。信じたい答えはここにもなかった。

◎          ◎

母に連絡した。先生やエージェントから聞いたことを話した。
「どうしたら良いと思う?」
「分からんよ。なつめが決めなさい」
誰も、私に答えをくれなかった。大人なのに、何も知らなかった。
「じゃあSARSやMARSのときは?そのときはどのくらいで終わったの?」
何か手がかりが欲しかった。何か判断材料や根拠が欲しかった。留学をやめなければいけない確固とした理由。「おそらく」、「だろう」、「こうするべきでしょう」。どの言葉も1年の思いを抑えるには頼りなかった。

でも、欲しかった言葉は何一つ得られなかった。せめて誰かにこうしなさい、ああした方がいいとアドバイスをして欲しかった。なのに誰も何も言ってくれなかった。

納得できる理由なんてなかったけれど、理由が見つからないことが答えな気がして、とうとう私は留学の中止を決意した。

◎          ◎

使うことなんてないと思って削除してしまった留学辞退書を、改めてダウンロードした。それを削除したときの自分の気持ちを思い出したら、やり場のない悔しさにどうにかなってしまいそうだった。

高校1年生の3月7日は元より、2年生や3年生の3月7日になっても、コロナは終わらなかった。きっと数ヶ月先の大学生になって初めての3月7日もコロナは相変わらずあり続けるのだろう。

けれど、今はこれで良い。大人は全ての答えを持っているわけではないと分かったからだ。自分のことは自分で決断しなければいけないと分かったからだ。
前代未聞の留学ドタキャンは私を確実に強くした。あのとき、何も言わず私に決断を委ねてくれた家族や先生に、今になってやっと感謝できるようにもなった。

今はこれでいい。けれど、いつか、自由に国境を越えられる日が来たら、その時はこちらから画面の向こうを訪れたい。成長した自分に合った計画をもう一度立て直して、リベンジしたい。