肉を食べない友人がいる。
味が嫌いなわけでも、アレルギーでもない。
最初は家族の意向で、今では彼女の意思で、彼女は生まれてから今までの27年間、肉を食べたことがない。

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私は肉が大好きだ。ステーキ、ハンバーグ、とんかつ、ビーフシチュー、フライドチキン。こうして羅列するだけでお腹が空いてくる。スタンダードな豚、牛、鶏に限らず、馬、鹿、猪、兎、鴨などのジビエも大好物で、わざわざそれ目当てで旅行することも多い。
肉は食べないんだ、と彼女が私に初めて告げたのは10年ほど前で、そのころはまだビーガンなんて言葉も浸透しておらず、私には意味が分からなかった。

彼女の話では、「自分が屠畜(食肉のために殺めること)できないものを食べるべきではない」という家の教えに従っているらしい。
魚は殺めることができる、だから彼女は魚を食べる。
豚や牛、鶏、ましてや兎は殺したくないし殺せない。だから彼女は肉を食べない。
彼女にとってシンプルな話が、高校生の私にはよく理解出来なかった。宗教みたいで少し嫌だったのかもしれない。

大学進学を機に、私も彼女も田舎から上京した。
おしゃれなカフェや買い物へ行ったり、お互いの家でのお泊まり会をしたりと、最低でも月1で会って東京を楽しんでいた。
彼女と一緒にいるときは肉を食べないようにしなきゃ。
知らないうちにそう思い込んで、私はずっと、彼女と一緒に野菜や魚を食べていた。
目の前で肉を食べられるのは嫌だろう。自分の食べられないものを選ばれるのは不快だろう。
私は野菜も魚も好きなんだから、それくらい合わせられる。大丈夫。

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大学進学して2年目、サークルにビーガン思考の子が入ってきた。世間でもビーガンやベジタリアン、動物保護や環境保全の活動が珍しくなくなってきたころだった。
彼女はもともと肉や魚を食べており、いまでも選択肢がそれしかなかったり、残して捨てられるような状況だったりするときは食べるが、普段はできるだけ避けて食事をしている人だった。
日本の畜産の状況や、屠畜されるために育てられる生き物の育成環境について勉強する中で、自分はそういったサイクルに関与・加担したくないと考えるに至ったと話す彼女に、衝撃を受けた。

命を大切に扱いましょう。
食べ物にありがとうの気持ちを持ちましょう。
飽食の日本で、それでも私は幼いころから食育を受けてきたはずだった。
食べることが大好きで、肉は特に大好物で、食べられればそれでよかった。
食べることに真摯な友人との付き合いも長くある。食に関する勉強の多い大学に入った。それなのに、私はあまりに思考停止をしていたのではないか。

ビーガンの人との出会いをきっかけに、そういった情報についてアンテナを貼るようになった。
肉を食べない友人とも、そういった話をすることが多くなった。その中で、彼女は私が目の前で肉を食べても特段気にならないと話してくれた。
「彼女」が屠畜をしたくないしできないから「彼女」は肉を食べないだけで、私はそこに関係がない。
それを知って、彼女との食事がラクになった。
わざわざビーガン食専門店やサラダ専門店を探して行くのも、ちゃんとした楽しみになった。

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大学3年の誕生日、肉を食べない友人とコース料理を食べた。
メインは肉か魚の選択制。私は初めて、彼女の前で肉を選んだ。好きなものを食べる私を見て彼女は嬉しそうだった。
畜産の環境やビーガンの思考、環境のこと、いろいろ調べた時には見たくない写真も見て、考えて、それでも「食べる」と決めて食べた肉はとても美味しかった。

いま私は選択していないけれど、ビーガンや菜食主義の人の考えも尊重したいし、勉強も続けたい。その主張がただの偏食やファッションとしてではなく、他人へ強要することもなく、「自分」がそうしたいから「自分」は食べない、というその人個人が考え抜いて決めた大切な意思だということを、忘れないようにしたい。
それが決して、美術館の絵にトマトスープをかけたり、子どもが多い通学路に屠畜されている動物の写真をばら撒いたりなどに繋がらないよう気をつけながら。

私は今でも変わらず、肉が大好きだ。
焼肉、ローストチキン、餃子、鴨南蛮、からあげ。書いているだけでよだれが出てくる。
これからも食について考え続けたいし、自分の意思で自分の食事を決めたいと思う。
その上で食べるなら、それはすべて、きちんとご馳走なのだと知ったから。