私はインスタグラムをやっていない。正確に言うと、「やっていない」ではなく「やっていたけどやめた」という次第である。
インスタグラムを始めたきっかけは、高校3年生の時の受験シーズンも終わりかけのある日、クラスメイトからこんな一言を言われたこと。
「大学に入ってインスタやってなかったら、友達できひんで」
あ、そうなんだ。これが率直な気持ちだった。
その頃は人の言うことを真に受けてしまう性格であった私は、さっそく大学入学に向けてSNS、いわゆるインスタグラムを開始した。
「誰も私の投稿になんて、いいねしてくれないのではないか」
ネガティブが人間の形をしたような思考回路だった私だが、無事優しい友人達からいいね!という名のハートマークを貰い、インスタグラムの魅力に取り憑かれていった。
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大学に入学してからは、毎日が目まぐるしい日々の連続だった。慣れない授業。わからないコマ決め。人混みだらけのキャンバス。私の心は疲弊していった。
失敗だらけのバイトから家に帰り、インスタグラムのアプリを開くと、ストーリーの中ではどこから遊ぶお金が湧いて出ているの?と問いたくなるようなキラキラしたストーリーの連続。
「もっとこうなりたい」
「友達がたくさんいる人だと思われたい」
「おしゃれな人だと思われたい」
終わりなき自己承認欲求の塊は、どんどん膨大化していった。
そして、「インスタのフィルターを通した世界」で彩られた一瞬を、誰のためなのかわからないインスタグラムの投稿欄に切り抜いていった。
旅行に行けばもちろん満足感は得られたし、貴重な経験をたくさんすることができた。でも、私の頭の片隅では出掛けたり旅行に行った時は、いつもこんなことを考えていた。
「インスタにどの写真をあげたらいいかな」
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時は流れ、私は大学4年生になった。そして、就職活動が終わったある日、ふと思った。
「インスタ、やめようかな」
理由は3つある。
1つ目は、恋人がインスタグラムをやっていなかったからだ。
ここでもすぐに私の人に影響される性格が反映されているが、少し変わってはいるが博識で私の知らないことをたくさん知っている恋人がインスタグラムを一貫してやらない姿勢に、私はかっこいいなと感じてしまったのだ。
2つ目は、インスタグラムをやっていようがやっていなかろうが、人は必要な時にご縁のある人に出会えることに気づいたからだ。
実際にインスタグラムをやめてからも、本当に大切な友人とは個別で連絡を取り合い、会うことができている。インスタグラムで直近の情報をリアルタイムで知らないからこそ、久しぶりに会った友人の近況を聞くのは楽しい。インスタグラムをやめた直後は禁断症状のように友人の近況を知りたくなることもあったが、今ではそれも無くなった。
3つ目は、無意識のうちに人に影響されて行っていた場所や買っていたものを、一新して自分自身の価値観を定めたいと考えたからだ。
これはできているのかわからない。しかし実際に、インスタ映えのカフェのようなスポットに行く回数は減ったように思う。
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なぜ今回、このテーマでエッセイの執筆をしようと思ったのかというと、最近会社の同期と集まる機会があった際に、インスタグラムをやっていないことを告げると大いに驚かれたからである。
確かに、私はインスタグラムをやっていないことによって、知らず知らずのうちに交友関係を狭めてしまっているのかもしれない。実際に、インスタグラムをやっていた頃はたわいのないDMを友人と送り合い、代わり映えのしない毎日の中のエッセンスとなっていたこともあったことは確かだ。
しかし、インスタグラムをやっていないからこそ、今いる友人や家族をより一層大切にしようと思えるのではないか。そう私は考えている。
だからといって、今SNSおよびインスタグラムをやっている友人に対してこのような考えを私は言わないようにしている。人それぞれ楽しみや価値観は異なるものであって、なおかつそれは移り変わっていくものであることを、私は身に沁みて実感しているからである。