それは5年前のことだった。12月のある休日、私は付き合って半年になる彼と水族館デートの約束をしていた。
彼との水族館デートは初めて。また、クリスマスが近いこともあり、この時期ならではの装飾や催し物も楽しみで、私はその日が待ち遠しくてたまらなかった。

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待ちに待ったデート当日、朝起きたら私は体に異変を感じていた。昨日までなんともなかったはずの喉が痛いのだ。それはまるで、喉の奥を繰り返し針でチクチクと刺されているよう。気のせいと流せる程度の痛みではなかった。
さらに、私の喉からは咳も出始めた。止めようと思っても止められる物ではない。咳はいったん収まっても、数分もしないうちに再発。咳き込みすぎて苦しくなった私のコンディションは最悪だった。

この状況であれば、彼に事情を伝えてデートをキャンセルし、家で静養するのが正解だろう。彼だって理由を話せばわかってくれる。むしろ心配してくれて、改めて日程調整してくれるだろう。けれど、私はデートに行くのをどうしてもあきらめられなかった。

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そこで往生際の悪い私は、体温計を取り出した。脇にそっと体温計を挟んで測ってみると、体温は37度1分。微熱だが、もともと平熱が高めの私にとってはたいした数字ではない。
「この程度ならきっと大丈夫。むしろデートに行った方が気分が晴れて、風邪も治るだろう」
無理やりこじつけた私は。体調不良を押してデートに出かけることにした。

第一の関門は同居している母だった。子供の頃から体の弱かった私の体調管理に関して、母はとても厳しい。風邪をひいてしまったことを心配性の母にもし気付かれたら、デートに行くなんて絶対に許してもらえない。
私は出かけるまでの時間、母の前では何事もなかったかのように元気にふるまい、普段通り朝食も食べた。咳き込むたびに部屋を離れては口を押さえ、咳をやり過ごした。

こうして外に出ることに成功した私は、迎えに来てくれた彼の車に乗り込んだ。
目的地に着くまで、車内ではいつもどおり、彼と他愛ない話をする。元気を装うが、朝から出ている咳はもちろん止まってはくれない。咳き込むたびに顔を外に向け、口に手を当てて咳をすることを繰り返す。

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狭い車内の空間。そんな私の様子に彼が気づかないはずがない。
「もしかして○○ちゃん、風邪ひいてない?」
あっさりとバレてしまったのは、出発してまもなくのことだった。

「実は、朝から喉の調子が悪くて。でも、どうしてもデートに行きたくて来ちゃったの、ごめんなさい」
私は観念して告白した。

「そうか。仕方ないな」
彼はそういうと車を止め、黙って何かを考え始める(怒らせてしまったかな。まさか、嫌われちゃった?)。
「少しだけなら、水族館行ってこようか」「長居はしないし、途中で少しでも体調が悪化していると思ったらすぐに帰るから。それでいいね」
思いがけない彼の言葉。彼の提案に異存があるはずがない。私が頷くと、彼は再び水族館の方に車を走らせた。

水族館に到着。長居しない約束のため、私たちは気になっていたスポットを重点的に回った。一番見たかったイルカショーを見て、大好きなペンギンのコーナーを訪れた。動物との記念撮影スポットでは彼とのツーショットを撮ってもらった。
楽しいデートだったが、案の定、私の体調は段々と悪化していった。お昼頃になると朝は普通に喋れていたのが、声がかすれ、まともに会話を交わすことができなくなった。顔も赤くなっていて、熱が出てきたのが傍目にもわかるようになっていた。
「これ以上はダメだ。もう帰ろう」
この時、自分でも体調に限界を感じていた私は彼の言葉に頷き、帰ることとなった。

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デートからの帰り道。思い出したのは、母に体調不良を隠して家を出てきてしまったこと。風邪を引いているのに無理して出かけ、しかも悪化させて帰ってくるなんて叱られないはずがない。

「ものすごく叱れられるだろうな。嫌だな」
「でも、私は叱られて当然のことをしてしまったんだ」
「もし彼まで叱られたり、悪く思われたりしたらどうしよう。彼は全く悪くないのに」
母に心配をかけるだけでなく、彼にも迷惑をかけてしまった自分の行動を顧みて、私はすっかり落ち込んでしまった。

もちろん自業自得である。それなのに彼は、そんな私を励ますためにお土産に可愛い形のデザートを家族の分まで買ってくれた。動物型の愛らしいデザートに私は少しだけ元気を取り戻した。

「家までついて行ってあげるから」という彼の言葉にも勇気をもらった私は自宅に帰り、母に朝からの事情を伝えて謝った。
「あまり叱らないであげてください」と一緒に来て母に伝えてくれた彼。母は彼に「迷惑をかけてごめんなさいね」と謝ってくれた。

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彼が帰った後、母は「今すぐ寝なさい」と私を怖い顔で睨んだものの、彼の言葉のおかげか、体調が悪い娘を叱るのが忍びなかったのかきつく叱られることはなく、母が彼を怒らなかったことにも私は安堵して眠りについた。

おかげでゆっくり休むことができた私は元気になった後、彼に改めてお礼を言った。
彼は「無理をしたのは良くなかったけど、そんなに俺に会いたいって思ってくれるのが可愛くて嬉しかったよ」と言ってくれた。
この出来事は、私が彼のことを心から信頼するには十分だった。体調不良でデートに行き、周りに大きな迷惑をかけるという反省すべき出来事だったが、この日彼は私の心を救ってくれる、忘れられないクリスマスプレゼントを贈ってくれた。

彼は今、私の旦那さん。結婚4年目の今、旦那に対して腹が立ったり、喧嘩をすることも沢山あるけれど、この出来事を思い出すと、旦那に対しての感謝の気持ちが蘇り、優しい気持ちになれるのだ。