私には顔も名前も知らないけれど、忘れられない人がいる。とは言っても、顔も名前も知らないので、正直日常生活では思い出さないことが多い。彼については知らないことばかりだから、普段の生活で彼を思い出してしまうような「取っ掛かり」が少ないからだ。
でも、忘れてはいない。「取っ掛かり」はないのに、いきなり彼を思い出すことがある。そんなときは思わず連絡してしまう。

「ひまー」
彼は必ず返信してくれる。しかし、日常の共通点などない私たちはすぐに話すことがなくなって、会話はすぐ終わる。
そんな薄い繋がりの彼、「S」との話をしていきたい。

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大学3年生の秋、私は病んでいた。
まず、やりたくもない就活をしなくてはいけないこと。「働きたくない」が本音なのだから、やりたい仕事もなにも思い浮かばなかった。それなのに周りは明るかった頭を墨汁のように黒く染めて、口を開けばやれインターンだのOB訪問だの話している環境が苦痛だった。
もう1つは、まあ恋愛だ。大学1年生のときに一目ぼれしたイケメン君に、すべての初めてを捧げたものの、付き合えず、上手くいかなかったというありきたりな展開だ。私はありとあらゆる失恋ソングに手を出して、その悲しみに浸っていた。

そんな病んでいた私は「チャットアプリ」を始めた。これは一応「出会わない系」というもので純粋にトークを楽しむためのものだが、そうは言ってもやましい気持ちの人が大半だった。
女子大生というブランドをプロフィールに大々的に掲げていた私は、毎日大量に男たちからトークが飛んできていた。それらに無作為に返信していたとき、私とSは繋がった。

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Sは1つ年下の大学生だった。不思議と初めて話した時から気が合って、チャットアプリ利用者では珍しく、純粋にアプリの目的を果たしていたと思う。
私たちはそれから、毎日毎日チャットし続けていた。Sは早い段階から就活を頑張っていること、バスケが得意なこと、3人兄弟の末っ子なこと、お酒はあんまり飲まないこと。たくさん知った。……顔と名前以外は。

この時、私とSは運命の相手なんだと本気で考えていた。誰と繋がるかわからないアプリで奇跡のように出会ったのだから。
でも、私が「会いたい」と言ってもSは了承してくれなかった。理由は色々言われたから、忘れてしまった。でもSは「暇つぶし」で話しているに過ぎないといつも言っていた。
きっと、気持ちが大きくなって暴走しかけている私を牽制していたのかもしれない。本当は気づいていた。最初は「かわいい」って言ってくれたり、アプリ上の名前を読んでくれたりしたのに、全くなくなっていたことに。

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そんな私は玉砕覚悟でチャット上で告白して、フラれた。顔も知らない男のことを想って、毎晩泣いた。でもやっぱり顔を知らないので、すぐに立ち直った。
それから数年経ち、不思議なことに私とSの繋がりは切れてはいない。1年に数回くらい突発的にやり取りが発生する。

私はやりたくない就活を黒髪で乗り越えて、社会人4年目になった。おばあちゃんになるまで忘れられないと思っていたイケメン君のことも、何も感じないようになった。当時の病んでいた私からはかなり大人になったはずだ。
Sは昔言っていた。「会話が終わったら、自分から再開することはない」。でもSは、もう終わった私たちのチャットを復活させてくる。
「ひまー」

そのとき、忘れていた思い出がよみがえる。当時と変わった私を伝えたくなる。ネット上じゃなくて、自然にSと出会えるどこかの女を恨めしく思う。そんなまがまがしい気持ちが一瞬にして湧き上がる。
でも、私はもう大人だから、そんな気持ちは伝えない。適当に相槌を打って、あの頃を懐かしく思って、終わりにするだけだ。
S、これからもずっと「暇つぶし」相手でいようね。