「仕事とは人生そのものである」そんな感覚が、小さい頃から染みついているような気がする。
時代なのか、刷り込みなのかは分からないけれど、私はほんの少し前まで「どういう仕事に就きたいのか」=理想の自分の姿という根強い価値観を持っていた。
人生を楽しむにはやりたい仕事に就かなければならないという考えの下、就職活動の時も一番に優先したのは「やりたい仕事かどうか」だった。残業時間やお給料、会社の人との相性は二の次で、とにかくやりたい仕事に就くことが自分のなりたい大人になることに繋がると本気で思い込んでいた。

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でも、それは間違っていた。実際やりたい仕事に就いてみたら、想像よりもずっと体力仕事で、身体の弱い私にはかなり堪える。職場にも馴染めているとは思えなかった。周りは“コミュ力おばけ”ばかり、スクールカーストで上の方にいるような人が多くて、とても羨ましいがもし学生時代だったら友達になってはいないだろうという感覚があった。肝心のやりたい仕事に関わってはいるが、なぜかそこに達成感を感じられない自分がいた。

どんなに頑張って結果を出し、自分のノウハウを蓄積しても、自分の中に溜まっていかない。自分でやりたいと思って始めた仕事なのに、自分の人生ではないような感覚だった。
そして頑張りすぎて、休職。これは明らかに自分のなりたかった自分ではない。

なぜこうなったのか。
今から考えれば「やりたい仕事かどうか」よりも「自分にやるべき理由があるか」で選んでいたような気もする。
大学時代にやってきたこととも近からず遠からず、一見華やかで、かっこよくて、社会への影響がはっきりわかる、大きい仕事をした気になる。そういう見栄というか、自尊心と今までの人生との整合性を保つことができる。完全に頭で、思考で決めた仕事だったからではないかと思う。

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社内で活躍している人たちは「好き!」「楽しい!」「うれしい!」という気持ちで仕事しているのを肌で感じていた。一方私は、仕事の遂行中に心の奥底から湧き上がるようなモチベーションはあまり感じたことがなかった。
そう、私は頭でっかちで、ある種の身体性が欠けていたのだと思う。もっと言えば、休職直前は十分な睡眠も取れず、ご飯を食べる暇もなく、疲れを感じるほどの心の余裕もなかった。人間としての生活がおざなりになっていては身体がついてくるはずもない。

仕事には、思考ではなく心・身体から滲み出る喜びみたいなものがやっぱり必要。
そう考えると、まずは生活を第一に据える必要があるのではと考えるに至った。そうなると、仕事=人生という価値観がそもそも成り立たなくなる。つまり、「“仕事=人生を楽しむ”という理想を叶えるためには、仕事を最優先にしていてはいけない」というなんともパラドックスに満ちた結論だった。

そう、人生は仕事だけではないのだ。生活のための仕事であって、地に足の着いた生活がなければ仕事に喜びなんてあるはずがない。 喜びを感じるには体力も気力もきっと必要で、人間として生きることがまず必要だからだ。

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世の中の仕事は学校の係決めのようなものではないかと今では思う。地球上、社会において人にはなんらかの役割があって、仕事はその役割の一つの形態にすぎないのではないか。その意味では専業主婦・主夫、子育てはもちろん、私のように休職中など様々な理由で働いていない人も、家庭で家事をするだけではなくて、その人がいるだけでしあわせに感じる人がいてくれたり、誰かの心の支えだったり、そういう風に仕事ではない、一見わかりにくい形でも、誰もがなんらかの役割、つまり“係”を担っているのだ。

近年AIやロボットの普及でどんどん仕事が失われると言われている。かつて古代ギリシャでは奴隷制で労働は奴隷がやるものだったように、「生きるために働くのはナンセンスである」という価値観が広がることも全くの夢物語ではないはずだ。

人間は仕事をするためだけに生まれてきたのではない。人生はずっと複雑で、本当の意味で人生を楽しむには、自分に合った生活スタイル、仕事とのバランス、プライベートの人間関係などなど、もっともっと自分なりの工夫が必要なのだ。