わたしの苦手な言葉に「病んでいる」がある。
昨今では「地雷メイク」や「メンヘラ」など、精神が尋常ではない時でも使う表現をSNSで頻繁に見かけるようになったことに相まり、「病んでいる」は日常生活でも使われることが多い。
この表現はネガティヴなイメージがつきまとうだけではなく、次に発する言葉を抑える役割を果たしている気がする。それがわたしの苦手意識に繋がる部分で、恐ろしさすら感じることがある。

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これは大学生の頃の思い出。
わたしは主にインスタグラムで自分の日常を発信することが多く、時に投稿する写真に関係なくても、その日に思った・考えた・気づいたことを添えることがあった。特に、ストーリー機能が出来てからは、より頻繁に表現ができるようになった。

ある日、友人と食事をしていた時、わたしのストーリーの話になった。最初、彼女は「わたし、○○のストーリー好きだよ」と褒めてくれた後、「いつも彼氏と笑ってる」と付け加えた。どうやら、わたしの投稿する内容はめちゃくちゃ語っていて、病んでいるらしい。そして更新されると、彼氏にスクショを送って笑っているらしい。
「よくこんな文章が思い浮かぶよね」

彼女がわたしを傷つけようと思ってこの話をしたわけではないことはわかっている。ただ、わたしあるあるの話をしているだけだとも。
それでもわたしは落ち込んだ。いや、実のところかなり落ち込んだ。
昔から本が好きだったし、表現をする読書感想文や原稿作りもお気に入りの作業だった。
ストーリーは公開範囲が友人だけだったが、ささやかながら自分の気持ちを表す場として気に入っていた。
だからこそ、自分の表現の場を笑われている事実には堪えたのだと思う。
あの時、彼女には何も返答することができなかったし、どんな表情をしていたのかも分からない。
ただ覚えているのは、あの後暫くしてインスタのアカウントを消したこと。
発信することの意味が分からなくなってしまったのが、その理由だった。

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3年前、わたしはふいに思い立ってインスタグラムを再開した。あの後大学を卒業し、社会人として働く忙しない日々を過ごしていた。ふと、転職をしようと思い立った時、あの大学時代の出来事を忘れた訳ではなかったが、新しい自分になった気がして深く考えずにインストールした。
あっという間に、以前のように親しかった友人と繋がり直り、みんなの日常がパッと目の前に広がった。
「やっぱり、SNSがあるとみんなとの距離が近くなったようで楽しいな」と、最初は発信をしないで見る専門で眺めていた。

しかし、程なくして少しずつ投稿をするようになった。スタイルは以前と変わらない。なんともない日常で撮った写真と共に思ったことを文字化して24時間のシェアをする。
反応がある時もあれば、そうでもない時もある。またSNSをわたしの生活の一部に組み込んでいくのに、そう時間は掛からなかった。

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時間が解決してくれたのか、まだわたしの中でくすぶっているのかは分からないが、今のところは自由にわたしの気持ちを表現できる場として利用できている。

自分の気持ちを発信する意義はいつだって危うい。
「わざわざSNSに書くことではない」「自己顕示力強すぎ」「かまってほしいの?」
どこで傷つけられるのか分からないし、不本意にも加害者にもなり得る。
わたしのインスタにも、もしかしたらあの時の彼女のように「うわ!またこんな病んでいること書いているよ」と密かに思っている友人もいるのかもしれない。
それでもわたしが再開したのは、「わたしには文字に変えたい思いがある」という純粋な気持ちがあるから。
それ以下でも以上でもない。

まだまだSNSとの付き合い方は分からないが、わたしの心地よい場になり得るとだけ確信している。
期待し過ぎず、され過ぎず。別世界ではなく、この世界の一部として。画面の向こう側にいるのはわたしと同じ傷つきやすい人だと忘れずに、そっと静かに思いを広げ合える場所であってほしい。