高校生の時にブログとリアルタイムが流行った。
あの時は病んでる(悩みや辛いことを吐き出す)ことが一種のかっこよさみたいな時代だったなと思う。高校卒業してから現在まではTwitterとインスタ。文字数の制限がある中で紡がれる友人や知らない人たちの文章に何度心うたれ、日常生活を美しく切り取った写真に何度憧れを抱いただろう。
離れた友人の日常を小さい画面で知って、それをきっかけに連絡をとったりして、県外で就職した私にとって、大事な支えだったのは間違いない。
SNSで友人たちと繋がっていた私も今は、アカウントをログアウト
ずっと何かしらのSNSで友人たちと繋がっていた私も今は、友人と繋がっているアカウントはTwitterもインスタもログアウトしている。
そもそも私は自分の日常をあまり発信しない。自分の私生活に興味がある人なんていないと思っているし、お洒落に写真を撮るセンスもない。暗黙の了解として、SNSをしている友達と遊んだ後は一緒に撮った写真とお礼をアップしたりするくらいで、あとは友人のあげたものにコメントするくらいだった。
インスタのストーリーは、予想外の結婚の報告や妊娠の報告でたまに衝撃与えてくるので、年を重ねるごとに苦手になっていった(笑)。
自分の現実を生きることに精一杯なのに、友人の日常を見て心揺さぶられてしまうくらいなら、ログアウトして見ないようにしよう。
いいね!のボタンに気を遣うこの不思議な世界。
ログアウトに勇気がいる世界。
その世界をやめたからって、現実の世界でも繋がりがなくなるわけでもないのにね。
繋がりたいのは手の届くような日常ではなく、私の知らない日常
文章を読むことが好きだから、SNSで出会える素敵な文章に後ろ髪をひかれていた。でも、ログアウトしてからは好きな文章は読書をすることで、私の心を満たしてくれてる。インスタはアカウントをかえて、本が好きな人達と繋がるツールとして使っている。これがきっと私にとって正しい使い方。
私が繋がりたいのは手の届くような日常ではなく、私の知らない日常。普通に生きていて出会うことのない人たちの、考え方や想い、赤の他人の綺麗な日常の写真が私の人生にいい刺激をくれる。
知らない人たちだから、その文章は私に対してではない、だからこそ受け取るか受け取らないかを私が選べる。丁寧で綺麗な日常も比較対象ではなく、憧れになる。
自分が好きなものを発信する時も、私を知っている人たちがどう思うかを気にしなくていい。私が好きなものを好きなように表現できる。
身近な人との差に悲観的になるのなら、そんな気持ちからログアウト
もちろん今でも、お洒落で綺麗な部屋や料理の写真もすごく憧れるけれど、自分のメンタルが鏡のように映し出されて写真にはできないくらい散らかったり、綺麗になったりするこの部屋も、疲れすぎて割引になったお惣菜で済ませちゃうご飯も最高に愛おしい日常だと思っている。あと、お洒落に日常を切り取れるようなカメラのセンスがないのも分かってる。
みんなの毎日がキラキラした日常ばっかりなんて幻想ってわかってるし、ぶっちゃけそんなに他人の日常に興味ないはずなのに、どうしても小さな画面に映し出されたキラキラに心奪われてしまったり、身近な人の日常と自分の日常の差になんで?って悲観的になってしまう。
もう、そんな気持ちからログアウトしちゃおう!!
いつでもログインできるから、いつでも繋がれるから。
自分の世界を広げるための魔法のツールなのに、自分で狭い世界にしちゃもったいない。
きっと私の日常だって、誰かにとっては憧れで、同じくらいどうでもいいことのはず。毎日頑張ってるんだもん。SNSの世界くらい好きなものだけにしたいと思わない?
キラキラしてるものから素直にキラキラが受け取れる距離で使っていくこと。
自分の日常を大切にすること。
自分にとって大事なものを取捨選択していくこと。
これが私のSNSとの距離のマイルール。